レンブラントの闇

風の道・・・つれづれに・・・


 第一回 レンブラントの闇  

 レンブラントの絵が好きである。

 最初にどこで目にしたか今となってはもうわからないが、とにかく心惹かれた。

 十七世紀の画家であるので、肖像画が多く、自由に形を変容させるピカソやマテイスなどの今世紀の画家の絵を見慣れた目には、モチーフはそうおもしろいものではないのだ。しかし、なぜこんなにもレンブラントに惹かれるのだろうか。

 それは独特の光の使い方にある。

 例えば、「石段にひじをつく少女」という絵を見てみよう。白いブラウスを羽織い灰色の石段に少女が両肘をついている。胸元に金の首飾りが見えるがその色はむしろいぶした金である。栗毛色の髪は周りの暗さにほとんど黒に近くなっている。額には朱がさし大きな瞳は潤んだようにこちら側を見ている。あどけないその少女の口元はかすかに笑みを浮かべている。

 そこには、少女の心のやさしいありようと、何ともいえない暖かさが漂っている。光は画面全体に当てられているのではなく、ちょうど小窓からさした光が少女の上半身を浮き彫りにしているかのようである。少女の実在がひしひしと見ている側に伝わってくる。

 レンブラントは光を美しく織りなす織物職人である。

 しかし、その絵をなおもじっと見続けていると、光は光だけでは存在することがないことに気付く。レンブラントの光を光たらしめているのは、実は背景の深い闇なのだ。

 レンブラントの肖像画の背景の多くが暗色系の茶色あるいは黒であるのは、彼が美しく光を綴るために、まず背景の闇が必要であることを発見したからだ。レンブラントはまず闇を見、そして光を織った。

 ここで私は、ブッダのことばを想起せざるをえない。

  「生は苦しみである。老いは苦しみである。病は苦しみである。死は苦しみである。

 愛する人と別れるのは苦しみである。怨み憎む者と出会うことは苦しみである。求めるものをえられないのは 苦しみである。つまりはすべてが苦しみである」

 ブッダは「苦しみ」という人間存在の闇を見たのである。背景をすべて闇で塗り潰したかのようである。

 しかしブッダはその闇だけを語ってはいない。その闇の中から浮かび上がってくる、いやその背景の闇をも包み込んだ生命の輝きを人々に伝えたのである。闇もまた光のひとつであることを語ったのだ。

 レンブラントの肖像画とブッダのことばは直接結びつくものではないけれど、このふたつが私の中で交響し、なにものかを示しているような気がするのである。


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