修証義(しゅしょうぎ)

修証義(しゅしょうぎ)
SHUSHOGI


曹洞宗でよまれるお経のひとつに修証義があります。 開祖道元禅師の主著「正法眼蔵」を中心に引用し、明治23年に編纂されたものです。 経典は、全5章3704文字から成り立ち、日本語によるわかりやすい経典であります。


第三章(受戒入位)

次には深く仏法僧の三宝(さんぼう)を敬い奉るべし、
次には、最高の人格である仏・すべてに通じる真理の法・そして法を依り処とした和平の相である僧を三つの宝といい、仏の教えを仰ぐものは、この三つの宝を深く敬うのでなければならない。
生(しょう)を易(か)え身を易えても
生まれかわり、死にかわりし、また、この世で苦しく悲しい時でも、楽しく嬉しい時でも
三宝を供養し敬い奉らんことを願(ねご)うべし、
三つの宝を依り処とし、あこがれの心を忘れまいと誓い願うのでなければならない。
西天東土(さいてんとうど)仏祖正伝(ぶっそしょうでん)する所は
インドから中国を経て、真実の道を正しく伝えてこられた祖師がたの生きざまは、
恭敬(くぎょう)仏法僧なり。
この三宝を敬い、尊ぶということであった。
若し薄福少徳(はくふくしょうとく)の衆生(しゅじょう)は
もし、正信もなく欲望のまにまにすごし、福徳が薄く少ない人びとありとすれば、このような人たちは
三宝の名字(みょうじ)猶お聞き奉らざるなり、
三宝の名前すら耳にすることはないであろう。
何(いか)に況(いわん)や帰依し奉ることを得んや、
ましてや、三つの宝に全生命を投げ入れて、依り処とすることなどあろうはずがない。
徒(いたづら)に所逼(しょひつ)を怖れて山神鬼神等に帰依し、
そして、自らが招きながら他の何のものかに逼(せま)られていると思い、身の不安におびえて、ついに山の神だとか、得体の知れない鬼神を憑(たの)みとし、
或は外道の制多(せいた)に帰依すること勿れ。
また、邪教の霊廟にすがるような愚かなことをしがちであるが、そのようなことをしてはならない。
彼は其(その)帰依に因りて衆苦(しゅく)を解脱すること無し、
そのようなものを依り処としたところで、物心両面にわたる、いろいろな苦しみから、のがれることができるものではない。
早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、
早く仏と法と僧との三つの宝を、おのれの生命の依り処とし、
衆苦を解脱(げだつ)するのみに非(あら)ず菩提を成就(じょうじゅ)すべし。
いろいろな苦しみから、とき、はなたれ、のがれるだけでなく、正しい智慧に目覚めるということこそ果たすべきみちである。
其(その)帰依三宝とは
まず三宝に帰依する作法の基本は、
正に浄信(じょうしん)を専らにして、
正しく、まじりけの無い信心を傾かたむけ
或は如来現在世にもあれ、或は如来滅後にもあれ、
み仏がこの世に在(いま)した時でも、また、み仏が入滅された後であろうが、
合掌し、低頭(ていず)して口に唱えて伝(いわ)く南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、
常に合掌、礼拝し、口に南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧とお唱えするのである。
仏は是れ大師なるが故に帰依す、
かくて、偉大なる導師(みちびきて)たる仏に帰依し、
法は良薬なるが故に帰依す、
迷妄の病を癒す良き薬である法を頂き、
僧は勝友(しょうゆう)なるが故に帰依す、
勝れた友達である僧と和してゆくのである。
仏弟子となること必ず三帰に依る、
仏弟子となるには、必ず仏法僧の三宝に帰依すべきであり、
何(いづ)れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後(そののち)諸戒を受くるなり
仏教の世界には、いろいろな戒律もあるが、どんな戒を受けようとも、まず三宝に帰依し、その後でいろいろな戒を受けるべきであり、
然(しか)あれば則ち三帰に依りて得戒(とくかい)あるなり。
従って三宝帰依によってのみ、初めて受戒ができ得たというべきである。
此(この)帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交(かんのうどうこう)するとき成就するなり、
我が身を仏のいえに投げ入れ、三宝を絶対の依り処とするときのはたらきは、必ず自らの心と三宝の徳がひびきあい、交わりあい、一体となるときにのみ成し就げられるのである。
設(たと)い天上人間地獄鬼畜なりと雖(いえど)も、
世には、有頂天になっているものもあれば、ウカウカしている人間もあれば、苦しみにあえぐものもあれば、苦しみにあえぐものもあれば、 たえず飢えガツガツしている餓鬼や、無知で愚かな心をもつものもいるようであるが、
感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、
ひとたび仏法を学び、我が仏に入り、全く一体となれば、どんな人でも、そのさまを帰依というのである。
已(すで)に帰依し奉るが如きは生生世世在在処処に増長し、
すでに、この処に至って安心決定すれば、生きかわり、死にかわりして、いずこにあろうとも、そのすぐれたはたらきが増し、
必ず積功(しゃっく)累徳し、阿耨多羅(あのくたら)三藐(さんみゃく)三菩提を成就するなり、
そのはたらきを積み重ねざるをえなくなり、そこに、この上ない、すばらしい悟りの道を得るのである。
知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深(じんじん)不可思議なりということ、
三宝帰依のはたらきは、もっとも尊く、この上なく実に深いことは、
世尊已(すで)に証明(しょうみょう)しまします、
仏陀釈尊がすでに証明してくれているのだから、
衆生当(まさ)に信受すべし。
この世のすべての人は、この証明を心から信じうけがうべきである。
次には応(まさ)に三聚浄戒(さんじゅじょうかい)を受け奉るべし、
次には、まさに三つの総合的な清浄の誓願の戒を受けなさい。
第一摂律儀戒(しょうりつぎかい)、
第一は、すべての不善を為さないこと、
第二摂善法戒(しょうせんぼうかい)、
第二に、あらゆる善行に励むべきこと、
第三摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)なり、
第三に、永く世のため人のために尽くそうと誓うことである。
次には応に十重禁戒を受け奉るべし、
次に十項目の大切な禁戒(いましめ)を守と誓いなさい。
第一不殺生戒、第二不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、
即ち、第一いのちあるものを、ことさらに殺さず、第二に与えられないものを手にすることなく、
第三不邪婬戒、第四不妄語戒、
第三に道ならざる愛欲を犯すことなく、第四にいつわりの言葉を口にせず、
第五不酒戒、第六不説過戒、
第五は酒に溺れて生業を怠らず、第六他人の過ちを責めたてず、
第七不自賛毀佗戒、第八不慳法財戒、
第七己れを誇り他を傷つけず、第八物でも心でも施すことを惜しまず、
第九不瞋恚戒(ふしんいかい)、第十不謗三宝戒なり、
第九怒りに燃えて自らを失わず、そして第十仏法僧の三宝を謗(そし)り不信の念を起こすまいと誓うのである。
上来三帰、三聚浄戒、十重禁戒、
以上、これら三つの帰依の信仰と、三つの清らかな誓願と、そして十条の戒めの実行とは、
是れ諸仏の受持したまう所なり。
もろもろのみ仏が、正しいいきかたとしてうけがい、持たれてきた道なのである。
受戒するが如きは、
受戒といい、仏道のきまりを守る、と請願することは、
三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、
過去、現在、未来にわたり、常にいます、あらゆるみ仏のお悟りになった最高無上の道であり、 金剛石の如く壊(やぶ)れることのない仏としての完全な人格が具わるのである。
誰(たれ)の智人か欣求(ごんぐ)せざらん、
正眼(まさめ)でものをみる智慧ある人なら、誰でも欣(よろこ)んで、これを求めないものはなかろう。
世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、
仏陀釈尊は、あきらかに、この世のすべての人びとに、この理(ことわり)を示しておられる。
衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位(くらい)に入(い)る、
即ち、世の人びとが、仏の戒法を受け誓願の式を修すれば、そのまま、み仏の位に入り、
位(くらい)大覚(だいがく)に同じうし已(おわ)る、
大いなる覚者(めざめたもの)として、仏陀釈尊と同じ資格を得、
真(まこと)に是れ諸仏の子(みこ)なりと。
まがうことなくみ仏の子となるのである、と。
諸仏の常に此中(このなか)に住持たる、
あらゆるみ仏が、この戒法の世界にあって、安らかに住し、これを持ち続けるさまは、
各各の方面に知覚を遺さず、
意識的に、それを知り、感ずるというような心のとらわれを残していないから、戒を、すべし、とか、すべからず、と受けとめるのではなく、
群生の長(とこしな)えに此中に使用する、
そうせずにはおられない完全自在の世界に遊んでいるのである。戒法を頂き、すでに諸仏の位に入り仏と同体の群生(よのひとびと)が、 長く仏道の中に生きる、使用するといっても、知り感ずるという心の思いがなくなるわけではないが、
各各の知覚に方面露(あらわ)れず、
思うに心にカゲやしこりがあらわれることなく、純真そのもので、これを受戒の誓願を果たしたさまというのである。
是(この)時十方法界(じっぽうほっかい)の土地草木牆壁(しょうへき)瓦礫(がりゃく)皆仏事を作(な)すを以て、
それは、ちょうど天地に存する土地や草木の自然界にも似て、垣根、壁土、瓦や小石のはてまで、みなそれぞれが、その役目を果たしており、
其(その)起す所の風水の利益(りやく)に預る輩(ともがら)、
風の恵みで草木は花を開き実を結び、水の流れにうるおいをえ、常に相関し自らも生かされ、また他を生かすという、
皆甚妙不可思議の仏化に冥資(みょうし)せられて親(ちか)き悟りを顕(あら)わす、
人の気付かないままの資(たす)けあいの中で、その本領を発揮しているごときのもので、
是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、
それを悟を顕(あらわ)すというのである。これは、たくまず、はからいのない自然(じねん)のはたらきの力というべきで、
是れ発菩提心なり。
これにめざめさせて頂く受戒の誓願に生きるすがたを、まことの仏心が発(お)きたというのである。


解説は、曹洞宗宗務庁版に依りました。


第1章 総序(そうじょ)
第2章 懺悔滅罪(さんげめつざい)
第3章 受戒入位(じゅかいにゅうい)
第4章 発願利生(ほつがんりしょう)
第5章 行持報恩(ぎょうじほうおん)

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