修証義(しゅしょうぎ)

修証義(しゅしょうぎ)
SHUSHOGI


曹洞宗でよまれるお経のひとつに修証義があります。 開祖道元禅師の主著「正法眼蔵」を中心に引用し、明治23年に編纂されたものです。 経典は、全5章3704文字から成り立ち、日本語によるわかりやすい経典であります。


第四章(発願利生)   Real audio sound file

 

菩提心を発(おこ)すというは、
ほとけ心に目覚めた生き方をするということは、
己(おの)れ未だ度らざる前に
自分本位の心を捨て、
一切衆生を度さんと発願し営むなり、
人のため世のため、生きとし生けるもの全てのもののために尽くすという誓願をおこし、実践することである。
設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、
在家であれ出家であれ、
或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、
或いは順境にいようと逆境にあろうと、どんな立場であっても、それを少しも意に介せず、
苦にありというとも楽にありというとも、
苦しい時も楽しい時も、
早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発(おこ)すべし。
真っ先に自分のことは勘定に入れず、周囲のものの真の幸福のために、ほとけ心をおこすことが肝要である。
其(その)形陋(いや)しというも、
その容姿が醜く粗末であっても、
此(この)心を発(おこ)せば、
このほとけ心をおこしさえすれば、
已(すで)に一切衆生の導師なり、
それで素晴らしい指導者といえるのである。
設(たと)い七歳(しちさい)の女流なりとも
それが、たとえ幼い女子であっても、
即ち四衆(ししゅ)の導師なり、
あらゆる階層のよき導き手であり、
衆生の慈父(じふ)なり、
全ての衆生の慈愛溢れる親である。
男女(なんにょ)を論ずること勿れ、
そこに男女長幼を論議する沙汰のものでは更にない(要はほとけ心をおこすか否かによる)。
此れ仏道極妙(ごくみょう)の法則なり。
これが仏道における実に尊い鉄則である。
若し菩提心を発(おこ)して後、
真にほとけ心が徹底して心の立て直しが出来たなら、
六趣四生(ろくしゅししょう)に輪転すと雖(いえど)も
どんな境遇に生まれても、
其(その)輪転の因縁皆菩提の行願(ぎょうがん)となるなり、
その時その場の出来事が悉く仏道修行を増進する因縁となるのである。
然(しか)あれば従来の光陰は設い空(むなし)く過すというとも、
たとえこれ迄は空しく月日を過ごしたとしても、
今生(こんじょう)の未だ過ぎざる際(あい)だに急ぎて発願すべし、
今の生命のある中に心を改めて、人生の再出発をしなければならない。
設(たと)い仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、
すでに善根功徳が円熟して成仏の資格が調っていても、
尚お廻らして衆生の成仏得道(とくどう)に回向するなり、
その功徳を他の多くの衆生(もの)の成仏得道のために廻らすがよい。
或は無量劫(ごう)行いて衆生を先に度(わた)して自からは終(つい)に仏に成らず、
そして永劫をかけ自分を忘れて、
但し衆生を度し衆生を利益(りやく)するもあり。
ただ一向に全ての衆生を済度する聖行にいそしむ菩薩方もあるのだから。
衆生を利益すというは四枚(しまい)の般若あり、
世の中の衆生(もの)を利益するために、四通りの大切な法(おしえ)がある。
一者(ひとつには)布施(ふせ)、二者(ふたつには)愛語(あいご)、
布施(ふせ)、愛語(あいご)、
三者(みつには)利行(りぎょう)、四者(よつには)同事(どうじ)、
利行(りぎょう)、同事(どうじ)の四つである。
是れ則ち薩垂の行願なり、※垂=土+垂
いやしくも世の中の幸福をねがう程の人は、請願し、これを実行しなければならない。
其(その)布施というは貪らざるなり、我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、
その第一の布施というのは、心清浄にして欲の汚れを離れることである。それ故、財がなく、力がなくても、他の施すのを見て讃歎随喜するのも立派な布施行である。
其物の軽きを嫌わず、其功の実(じつ)なるべきなり、
施物の軽重や多少よりも布施の精神に叶っているか否かが問題である。
然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、
だから一句でも一偈でもよい、親切にみ法を施すがよい。
此生侘生(ししょうたしょう)の善種となる、一銭一草の財(たから)をも布施すべし、
必ず今生後生に花咲かす種となる。一銭でも一草でもよい、たとえ些細な施しであっても、
此世侘世(しせたせ)の善根を兆す、
現世来世に実を結ぶ縁となるのである。
法も財(たから)なるべし、財(たから)も法なるべし、
法と財とは別物ではない。元来一つのものの裏表であるから、物心不二、財法二施の妙行が円満すれば功徳は無量である。
但彼が報謝を貪らず、自らが力を頒(わか)つなり、
自分の出来得る限りの力を分かち与えて喜捨し、しかもその代償を期待してはならない。
舟を置き橋を渡すも布施の檀度(だんど)なり、
このような布施の精神ですれば船の運航も架橋の作業も、
治生(ちしょう)産業固より布施に非ざること無し。
更には政治・経済・産業も悉く尊いものとなる。
愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発(おこ)し、
第二の愛語というのは、慈悲、慈愛の心をおこし、
顧愛の言語を施すなり、
愛情豊かな親切な言葉でもって、全ての衆生(もの)に語りかけることである。
慈念衆生(じねんしゅじょう)猶如(ゆうにょ)赤子(しゃくし)の懐(おも)いを貯えて言語するは愛語なり、
それは乳児を愛撫する母親の心を心として語る姿である。法爾自然に沁み出る慈愛の心が、言葉となって現れた時、
徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、
心素直にして善き行いをする人を見れば、ありのままにこれを讃え、心邪見にして行い悪しき人に対しては、気の毒に思いこれを憐れむべきである。
怨敵を降伏(ごうふく)し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、
怨みにおもう敵の怒りを鎮め、世の人間関係を仲睦まじく和合さすことも、慈愛の言葉が根本である。
面(むか)いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、
誰人でも面と向かって愛語を聞けば、心楽しく笑顔も浮かぶ。
面(むか)わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、
人づてに愛語を耳にすれば、その感激は更に深く、肝に刻み心に刻んで忘れはしない。
愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。
その上、慈悲哀愍の心を元にした愛語は、天子の御心をも動かす如くの力があるのである。このことをよくよく承知し勤め修すべきである。
利行というは貴賎の衆生に於きて利益の善巧(ぜんぎょう)を廻らすなり、
第三の利行というのは、貴賎貧富のわけへだてなく、平等に他を利益するためのよき手だてを廻らすことである。
窮亀(きゅうき)を見病雀(びょうじゃく)を見しとき、
たとえば、晋の孔愉は漁夫に捕らえて苦しんでいる亀を救って水中に放し、後漢の揚宝は傷ついた雀を助けて野に放ち、後に彼らの恩返しによって立身出世したという話がある。
彼が報謝を求めず、唯単(ひと)えに利行に催おさるるなり、
その行為は利行の心に催された止むに止まれない心の発露であって、ご恩返しをしてもらおうという、打算的なものは微塵もなかったのである。
愚人(ぐにん)謂(おも)わくは利侘を先とせば自らが利省かれぬべしと、
愚かな者は他を利することを先にすると、自分は損をすると思いがちであるが、
爾(しか)には非(あら)ざるなり、
決してそうではない。利行そのものは自他の隔てなく、平等に大利益を被るのである。
利行は一法なり、普(あまね)く自侘を利するなり。
利行とは一つ仕組みの歯車で、あちらを回せばこちらも回る、こちらを回せばあちらも回る。回りまわって共に生きる道である。
同事というは不違なり、
第四の同事というのは、本来の面目である
自にも不違なり、侘(た)にも不違なり、
自己の本心にも背かず、相手の立場をも犯すことなく、共在調和、円融無碍の作用をすることである。 衆生を善道に導くためには、和光同塵の方便を必要とするが、自分を捨てて相手と同じ心、同じ境遇になって、仏ごころを働かせる。これが同事である。
譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、
人間を済度する如来は、托胎・出生・発心・修行・成道と、人間の相をして出現なされ、人間の踏むべき道を踏んで仏となられたのである。
侘をして自に同ぜしめて後に自をして侘に同ぜしむる道理あるべし、
同事の極意は、大慈悲心をもって他の一切のものを包容することである。この力量があってこそ、自分を他に同じうせしめることが出来る。
自侘は時に随(したご)うて無窮なり、
自分と相手が付かず離れず有無相通ずれば、時に随い事に触れて、千変万化窮まりはない。
海の水を辞せざるは同事なり、
海が清濁併せ呑み、大河細流を全て受け入れて辞するところがないのと同様である。
是故(このゆえ)に能く水聚(あつま)りて海となるなり。
これによって、渺々たる大海の同一塩味となる。これが同事行の様子である。
大凡(おおよそ)菩提心の行願(ぎょうがん)には是(かく)の如くの道理静かに思惟すべし、
ほとけ心の請願と実践について、概略は以上述べた如く、自分のことは兎も角も、先ず他のために尽くす心をおこし、四通りの法を守ることである。 四通りの法とは、布施(物でも心でも惜しみなく他に与える)・愛語(やさしい慈愛の言葉がけをする)・利行(無条件に相手のためにする)・同事(自分と相手と一つになる)である。
卒爾にすること勿れ、
ここの道理を深く考え、静かに思いを廻らせて、決して疎かにしてはならない。
済度(さいど)摂受(しょうじゅ)に一切衆生皆化(みなけ)を被(こう)ぶらん
一切の衆生を悉くを受け入れて、漏らさず救い助けようという、大請願の営みによって全ての衆生が、 その教化を頂戴することができるのであるから、それは実に広大無辺な功徳である。更にまた、この行願の徳がすでに自分自身に具わっているならば、 それこそ我が身ながらに尊い菩薩である。
功徳を礼拝(らいはい)恭敬(くぎょう)すべし。
こうした功徳を丁重に礼拝し恭敬して、汚さないようにしなければならない。


解説は、曹洞宗宗務庁版に依りました。


第1章 総序(そうじょ)
第2章 懺悔滅罪(さんげめつざい)
第3章 受戒入位(じゅかいにゅうい)
第4章 発願利生(ほつがんりしょう)
第5章 行持報恩(ぎょうじほうおん)

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