SZI主催特別講義@大本山永平寺

SOTO禅インターナショナル(SZI)主催の大本山永平寺特別講義が、6月7日(木)、曹洞宗大本山永平寺を会場に開催されました。
6月1日の大本山總持寺講演会に引き続き、今回は永平寺修行僧のみを対象にした特別講義です。

今年は、前・北アメリカ国際布教総監、好人庵住職 秋葉玄吾老師をお招きし、「北アメリカの禅の現状とこれから」を演題としてご講演いただきました。

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■SZI主催大本山永平寺特別講義
演題 「北アメリカの禅の現状とこれから」
講師 前・北アメリカ国際布教総監、好人庵住職 秋葉玄吾老師
日時 6月7日(木)午後6時30分より
会場 大本山永平寺 大講堂
主催 SOTO禅インターナショナル
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新緑に包まれた参道は、実に爽やかです。
事前に監院老師、単頭老師に拝問をさせて頂きました。

 

永平寺での特別講義は、演題には「北アメリカの禅の現状とこれから」とありますが、それを踏まえて、将来の曹洞宗を担い、少なからず国際布教師として活躍するであろう修行僧に向けて、エールを送る内容となりました。
講演の内容を、kamenoメモより書き起こしました。
(あくまでも、メモからの書き起こしですので、誤記があった場合には、私に責務があります)



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皆さんは一日公務や作務に明け暮れているようですから、どうぞ坐蒲を使っていただいて構いません、気楽に聞いてください。
私は永平寺に安居して修行3年目に首座を努めさせていただきました。
その時は加藤黙堂監院老師で、本講で加藤老師にお話していただきたいということで、(大庫院3階の)菩提座で講義をしていただいたことがあります。
鐘がチーンと鳴って、しばらく待っていると、行者が蝋燭を持ってきて、加藤老師がトコトコ入ってきてちょこんと座り「私は話が苦手なので質問があればお答えします」と仰った。
薄暗い菩提座で、老師と修行僧たちがお互い向き合ってずーっと座っていて、誰も質問しない。15分、20分・・・随分長い間座っていた感じがします。

徐に加藤老師は、「質問が無いようなので終わります。質問が無いことが何より」とトコトコ帰っていた。
皆あっけに取られ、堂行も起立手磬を鳴らすことすら忘れていました。

この出来事は、実は薬山惟儼禅師のエピソードだったのだと後で気づきました。

寺の事務長が、久しく説法台に登らないでいた薬山禅師に聞いた。「修行者たちは禅師様のご法話を心待ちにしております。ひとつ、ご法話をして下されませんか」。薬山禅師は「判った、修行僧を集める鐘を打ちなさい」と承諾した。修行僧は、「おお、禅師様のお話が聞ける」と期待して集まった。禅師は修行僧が待っている講堂に現れ、説法台に登った。暫く黙ったまま坐っていた。そして、一言も発せず台を降り、方丈の間に帰ってしまった。事務長はあわてて禅師を追い、方丈の間で聞いた。「先刻は修行者たちのために説法しようとおっしゃりましたが、何故、一言もお話にならなかったのですか」。禅師は答えた。「お経を解説、研究する学者もいる。仏教倫理を解釈し論ずる研究家もいる。説法は彼らに任せられる。わしは、この通りだ」


加藤監院老師はこのことを教えてくれたんだなと、かなり経ってから気づきました。
曹洞宗は坐禅、只管打坐が妙薬、修行が悟りの姿というのが道元禅師の教えです。
また、薬山禅師の教えは日常の修行がそのまま悟りに重なる、それが曹洞禅の修行ということです。

皆さんは、ある人は接茶、直歳、参拝者の応対、伝票を書いたり、古参和尚に怒られたり、そういう生活を余計なことを考えないで淡々と行うことが大切です。
是非永平寺の空気をたくさん吸収してください。
永平寺に修行されることは、みなさんにとっても有難いことですし、外部の我々からも大変有難いことなのです。
祖山で修行していることが、きっと皆さんの宝になり、源泉になります。

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只管打坐とはどういうことでしょうか。
当時後堂だった楢崎一光老師が、2月の坐禅の最中に僧堂、廊下の窓を全て開けて「宇宙と一体の禅じゃ、眠るな!」と仰ったことを思い出します。
僧堂内にピューピューと寒風が吹き込んできました。
だいぶ経って、私がアメリカに行って、タサハラという山の中で、冬の間に坐禅をして、初めて坐禅は安楽の法門であることがようやく解りました。
道元禅師は結跏でも半跏でも、誰でもできる方法で良いと述べられています。それにも通じる、誰にでもできることなのです。
30代半ばでタサハラに居たとき、現地の人に英語でペラペラ言われても言葉が聞き分けられませんでした。
3ヶ月すると、頭がカチンとして英語も日本語も受け入れられなくなってしまい、そのうちにだんだん、現地の人を避けたり、「日本語で話せ!」と癇癪を起こしたり。

しかし、あるとき風呂に入って、裸になって改めて見ると、白人でも黒人でも同じ人間だということに改めて気づいたのです。
ただ、話す言葉、それによる思考の違いがあるだけ。皆同じ「人」なんだ。
以降、坐禅しているときには、風呂の出来事と同じだであり、坐禅は普遍、誰でもできる、そういう坐禅が悟りの姿なんだということが、よく解りました。
皆、仏性を持っている。

皆さんは、現在制中で、3時半振鈴という清規 (pure standard) に基づいた、仏の教え生活の仕方で修行生活をしています。
だから、淡々とその日送りを進めて行ってください。
「人、試みに意根を坐断せよ。十が八九は、忽然として見道することを得ん」『学道用心集』


永平寺に来て、皆さんの顔を見ていたらエールを送りたくなったのです。
皆さんは難値難遇の勝縁に恵まれています
修行中嫌なことがあった、早く帰りたい、そう思うことも仏さまなのです。
何をするにも、大工さんでも、職人さんでも、3年くらい一つのことをしないと全体像が見えない。
いろいろな事情があるでしょうが、どうぞ、できるだけお山の空気を一杯吸って、粥をいただいてください。

ただし、この世の中は全てが粥でできているわけではない。
世の中には堅いものがいっぱいあります。そのときに消化不良を起こさないようにしてください。

北アメリカのスティーブジョブスが曹洞宗の知野弘文師から様々な教えを受けて、自分のビジネスの中で禅の教えを生かしていった。
なぜジョブズが禅にのめり込んだのか、北アメリカに禅がどのような歴史をもとに根付いて広がっていったのかという様子が、お配りしているSZIニューズレターにまとめられていますので、後ほど読んでください。

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なぜ北アメリカで禅が受け入れられているのか、私の考えを、これから述べたいと思います。
欧米で一番名が知られている仏教者はダライラマです。
それと、ベトナムのティク・ナット・ハン。

ティク・ナット・ハンの教えに、

息を吸って 私は しずか
息を吐いて 私は微笑む
このいまに生きることこそが
私には 素晴らしい一瞬( ひととき)

というものがあります。
一息の間にいのちが、私たちはその連続で生きていると教えています。
その間にあなたがたがあるのです。
宮崎故禅師は、「一息 不染汚それがいのち」とよく仰られてていました。

人間は、生まれたての時には純粋です。しかし、人間社会の知識や躾、教育で染められていきます。
日本人は日本人に、アメリカ人はアメリカ人に、そのように社会に染められます。
それを放棄してそこにあるのが坐禅なのだろうと思う。
築きあげられた自分をすべて捨て去るのです。

大脳 交感神経の一部分。知性の頭のはたらき
自分の知っている範囲にはついては働くが、その限界を超えることはなかなかできません。
養老先生は、それを馬鹿の壁を呼びました。
その壁を取っ払ったのが道元禅師の只管打坐です。
お茶を飲もうとして、無意識のうちに手を伸ばして口に運ぶ。
その先にある無意識の世界。
自己を忘るるということです。


宇宙の原理原則に従ってこの世界が存在しています。
137億年前にビッグバンが生じて、物質ができて太陽ができて地球ができました。
そこに生物が誕生し、私たちができました。
それぞれの存在が、すべて「はじめ」に続いている。
禅の仏教の原則も、この自然の摂理に合致しています。
宇宙とぶっ続きの坐禅。

宇宙の原理に基づいて、すべてが働いています。
非思量の坐禅。

ところが、一人の人をそのように捕らえるこという概念が、欧米にはありません。
例えば、デカルトの第一原理「我思うゆえに我あり」
これは、考えている自分は否定しようがない。思うことが自分の存在意義だとしています。

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禅の教えのうち「仏道をならうことは自己をならうこと」、ここまでは欧米の方は理解できます。
自分を磨くことだろうから。
しかし、「自己を知ることは自分を忘れることだ」というと、欧米の人は「それは何だ?」と戸惑うのです。
さらに、「自己を忘るるというは 万法に証せらるるなり」となると、さらに戸惑ってしまう。
そこには自我がないのか、意思がないのか、と混乱するのです。


仏教は諸行無常、現象世界 現象であるがゆえに、そのものが持っている本質はないと考えます。
仏教思想は、実に物理学の法則に合致しています。
様々な条件が整って、万法に証せられる。
道元禅師は、あなたが気付いていようが気付いてなかろうが、厳然として、そういう原則がそこにあると仰った。
そのような考え方が欧米の人にとってはとても新鮮なのでしょう。


人間が山の木を切ったり、石油を燃やしたり・・・このままでは、人間のみならず、生き物たちはどうなっていってしまうのでしょうか。
知性で進める文明は、必ずどこかで行き詰まります。
そこで、禅仏教の考え方が必要なのです。
他のものが豊かであれば我々が豊かであるという考え方です。


今の世の中だからこそ、私たち人間の知性の中にそういう考えを取り入れ築いていかなければならないのではないでしょうか。

アメリカは10年前までは97%くらいがキリスト教信者でした。
それが、最近ではキリスト教が92%、その他の宗教が8%、うち仏教の割合が5%にも増えています。
曹洞禅は2%ほどになりました。


このように、禅はアメリカならず、ヨーロッパにも広がっています。
世界宗教になりうる英知を含んでいるのです。

街中を走っている車のほとんどが日本製の車です。
日本にいると中々気づきませんが、日本の技術は相当なものなのです。
日本にいると、日本車の素晴らしさに気付かないのと同様に、曹洞宗の禅の教えが、大きな力を持っていることも気づきません。
しかし、禅は人類の生活の仕方、文明のあり方を変えていく強大な力をもち、私たちの根底にあるものを支える宗教です。

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みなさん。
日本の道元禅師、瑩山禅師の教えはそれだけの力を持っている、ということをよくよく知っておいてください。
修行中は、難しくて理解できない部分があると思いますが、何も考えず、弛まず、続けていくことが大切です。
後々にきっと理解できる時が来ます。
皆さんが50歳過ぎに、高祖さまの教えがすっかり身についている、そういう僧侶になってください。

私は北アメリカにそういう海外の方が修行できる専門僧堂ができるよう奔走しています。
是非、永平寺を下りた後は海外に出て手伝ってください。
そしてもっといろいろな経験をしていってください。

僧は勝友ということばがあります。
裸になって付き合える友達、これは得難いものです。
一般の人とも一番の友達であってください。
道元禅師の建仁寺でのエピソード、随聞記にもありますが、困っている人には手を差し伸べる、そういう慈悲の心をもつことも大切でしょう。


今日は、永平寺に来たら自分も雲水になった気持ちになりました。
この講堂の入口に単草履が並べられていたのを見て、脚下照顧が自然に身についているのだと感じました。


最後になりましたが、永平寺の不老閣猊下をはじめ役寮の皆様、そして今回の講演の機会を作っていただいたSOTOインターナショナルのスタッフの方々に感謝申し上げます。
まもなく眼蔵会を迎えます。是非味わってみてください。
有難うございました。


<質疑応答3件>


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投稿者: kameno 日時: 2012年6月 9日 08:56

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