解説 |
倚松庵は、總持寺の境内、紫雲庭の北に位置する茶室で、軒に本山独住第一世奕堂禅師の遺墨といわれる「倚松」の扁額がある。
茶室の設計は高橋箒庵と伝えられる。高橋箒庵は、京都高山寺遺香庵など、多くの茶室を設計した茶人。
広間の西に小堀遠州好みとされる卍形腰掛待合の形式をとる待合がある.。中央に銘のある釣鐘を釣り、その銘より、この茶室が昭和初期の茶の世界を知る貴重な資料であることを示している。 |
描法は細密濃彩で、金泥を多用して重厚、よく伝神写象の実を上げている。祖絹に近い目の粗い画絹が用いられている。
和尚は、前田利家夫妻の尊崇をうけ、利家廟所である桃雲寺を開山した。また、夫人のための本山内塔頭芳春院の二世となり、元和5年寂。国重文 利家夫人像の賛者である。
製作年代は様式的には中世末~近世初頭に属する秀作である。 |
衣冠をつけて右手に扇を持ち、上畳上に半跏に坐す。袍は唐草文、扇には梅鉢文が見える。
像首(1533-99)は、越前府中城・能登七尾城を経て天正11年に金沢へ移った豊臣家の大老である。老貎の本像は、国重文 利家夫人像より一廻り大きく、かつやや左向きの主立像であるところからみて、晩年の寿像ないしは没後まもなくのその写本であろう。 |
円盤型で、表面に白銅版をはり、中央部に金銅版金で種子(梵字カーン=不動明王)を蓮華台にのせ鋲留せしめている。裏面の檜板に天台修験道の別院道場葛川息障明王院(現滋賀県)に弘長2年奉納とあることが、赤外線撮影により判明。
大正期に村井家から寄贈された多数の仏像や仏具などの内の一つにあった。 |
總持寺は、能登(石川県)の伽藍が灰燼に帰したのを機に、明治44年鶴見に移転した。新しい伽藍に相応した梵鐘をと、16,000余人の寄進によって鋳造された。
図案は懸賞公募し、渡邊仁が選ばれ、鋳造作者は高橋才治郎、西澤吉太郎、銘文執筆者は大内青巒。
龍頭は双龍背後で繋がっている。上帯、中帯には連続椰子葉状の文様を鋳出、下帯は撞座下の位置に四神を配置し、その間に葡萄唐草文を鋳出。池ノ間4区に41行の鋳出銘がある。 |
曹洞宗開祖道元禅師(1200-1253)の渡海求法時における師・天童如浄禅師の語録。
奥書を欠き筆者は明らかではないが、細くて力強く、個性的な筆遣いには南宋の影響も伺われ、道元禅師の直弟子に近い人物の書写になるものと思われる。
仁治3年に伝来したとされる宋版『如浄禅師語録』の古形を最も良く伝えた完本と考えられる。
如浄禅師、道元禅師の思想解明において重要。 |