曹洞宗 貞昌院 Teishoin Temple, Yokohama, Japan
1952-1979-1994年の変化 1947年の航空写真 1952年の航空写真 1971年の航空写真 1979年の航空写真 1985年の航空写真 1990年の航空写真 1994年の航空写真上永谷の石仏探訪新編相模国風土記にみる貞昌院 新編相模国風土記稿は、徳川幕府が11年の歳月を費やし天保12年︵1842︶にかんせいさせた相模国の大地誌です。相模国の村々について地理・歴史・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な資料です。貞昌院の位置する上永谷は永谷村であり、相模国風土記にも、永谷村や貞昌院の記述もあります。 ・正保改定図・・・北東端に﹁平戸﹂﹁永谷村﹂﹁永谷上村﹂が記載されています。 ・永谷上村、天神社、貞昌院についての記述先土器時代 昭和27年、上永谷西洗地区の農道拡張工事の際、ローム層中から黒曜石の石槍が見つかった。石槍の長さは13センチで、断面が菱形をしており、﹁旧石器時代に属する先土器時代のものと推測される﹂。 また、永作遺跡から立川ローム中に卵大の自然礫と、ほぼ2倍大の加工がみとめられる礫石が見つかっている。 西洗や永作は見晴らしの良い台地にあり、小人数の集団が季節に応じ、獲物に応じて移動していたものと思われる。 縄文時代 昭和43年に始まった市営地下鉄の工事中、地下7~10mからイルカの頭部や牡蠣などの貝殻、猪骨片に貝殻の付着したものなどが発掘された。猪の骨については死んだ猪が山から流れて海に沈み、貝が付着したと考えられ、丘陵と丘陵の間は海であったと推測される。これらは縄文期のものであると推測される。 大岡川右岸の標高30~40mの付近に貝塚が集中して分布しているので、このあたりが海岸線であったと推測される。 港南区には126箇所の遺物の出土が認められ︵横浜市埋蔵文化遺跡台帳︶、未調査のまま消滅してしたものも多いと言う。特に日野町・野庭町・上永谷町・下永谷町に遺跡が集中している。 弥生時代 港南区内では当時の水田跡は発見されていない。住居跡は日野町で発掘されている。 古墳時代 港南台遺跡︵日野町榎戸︶・そとごう遺跡︵戸塚区上柏尾、港南区下永谷町池田︶・有華寺遺跡︵下永谷町有華台︶・丸山遺跡︵上永谷町六反田︶・おばご遺跡︵下永谷、芹が谷︶・永谷野庭遺跡︵上永谷、野庭町︶・平台遺跡︵上大岡東︶・雑色杉本遺跡︵笹下︶・蜂ケ谷遺跡︵笹下︶が代表的な遺跡である。 当時の海岸線は大岡川の沖積低地まで進み、この時代は7~800年も続くため多くの遺跡が分布している。 7世紀前後の大塚前方後円墳や横穴古墳が永野、日野地域に多く出現し、稲作を中心とした農耕の有力者が出始めた事をうかがわせる。 武蔵と相模のはじまり 港南区内はおおむね横浜横須賀道路の付近を境として東側が武蔵の国、西側が相模の国であった。大和政権の東征により箱根の足柄峠方面から相模川の中流地域を渡り県央から武相国境を通り、三浦半島の走水から房総半島へ抜けていったものと考えられる。この武相国境の山道は特に重要な交通路であった。 右の図中、赤が﹁武相国境﹂、オレンジ色が﹁かまくらみち﹂のあったと思われる場所である。なお、文献の上では﹁日本書紀﹂に最古の﹁武蔵の国﹂という記述がみられる。 支配体制の変遷 ﹁所領役帳﹂をみると、﹁宅間殿︵=兵庫助房成︶﹂として港南区では永谷と南区永田で三百貫文と記されている。宅間家は永谷を中心とした古い豪族であり、二俣川の三仏寺に歴代の墓がまつられている。 小田原北条氏が滅亡し、徳川家康の時代になり支配体系は変遷した。 永谷上村は松平大和守、山田立長、鈴木隼人、蜂谷七兵衛が知行し、文化8年松平肥後守、文政4年蜷川相模守親文の采地となった。民家は50戸であった。 新編相模風土記にみる永谷上村︵名我也加美牟良︶ 江戸より行程十里、永谷郷に属す。天正14年12月藍瓶の税務を諸村に課せし文書に永谷の名見えたり︵足柄下郡板橋村京紺屋藤兵衛蔵文書曰﹁前岡永谷右之在所不入与申紺屋不出候由、曲事に堅申付可取、若猶兎角申不出候はば可申上他郷へ越し候共、其在所迄ただし、役口可取者也仍如件、丙戌十二月廿五日、京紺屋津田、虎朱印、江雲奉之﹂とあり︶同19年彦坂小刑部元正検地の後、今に至りて其の法に随ふ、旧は当村上中下三分の別称あるべし 中古中分の地を分かちて別村を建つ是今の中村なり、今当村内を区別して、上分下分の別称あるは其遺れるなりされば中村の別当村と一区たりし故地形大牙して広袤四隣共に弁別し難し故に爰に活載す。 人口の変遷 地誌御調書上帳︵文政7年︶ 永谷53戸 ︵内訳 内寺2・上分1・堂宇1・百姓上分33・百姓下分17︶ 新編相模風土記︵文化8~元文5年︶ 永谷上村 民戸139戸 ︵内訳 永谷上村50・永谷中村43・上野庭村39・下野庭村7︶ 皇国地誌村誌︵明治9年︶ 本籍国民106戸、寄留国民2戸、神社4戸、寺院4戸 人員 男306人・女322人・馬26頭・大六車4輌 大正元年12月現在 永野村 164戸 ︵内訳 永谷108・上部落41・中下部落67・上野庭44・下野庭12︶ 人口本籍1410人、現住1249人 大正3年4月現在 永野村 184戸 ︵内訳 上永谷49・下永谷74・上野庭39・下野庭22︶ 人口本籍1685人、現住1370人 昭和35年4月現在 永野連合 665戸 ︵内訳 芹が谷267・下永谷125・上永谷215・下野庭57さらに詳細な歴史についてはこちらをご参照ください 永野郷土誌RETURN