11、天災地変
当永野地区に於ける天災地変中口伝に存するところから次第に述べて見よう。
一、元禄七年、八年︵約二百七十年前=昭和四十六年起算︶両年に亘り、赤痢伝染病発生、相当の死亡者を出す。
二、宝永四年︵約二百六十年前︶
富士宝永山の大噴火、当地域一帯は黒砂多く降りしきりて、あたり一面昼間でも暗黒となり、三日目には小石さえ降り加はりたれば、人皆此の世は暗になるか、はた又滅するかとさえなげき悲しみたりと、現在でも処々に三糎及至五糎の黒砂の層を見い出だす。
同年、腹痛甚だしく、下痢を伴う伝染病発生、恐怖を更に加ふ
三、享保十七年︵約二百四十年前︶
当地域はコレラ病の大流行に侵され、殊に幼少年の数多くの死亡者を出だし、その対策に困窮を極む。
四、安政二年︵約百十五年前︶
所謂安政の大地震にして、十月の出来事、其の震動の劇甚なる、一歩して倒れ、二歩にして又倒れ、遂に匍匐して漸く戸外に出づ。
五、慶応元年、此の年も伝染病発生、村民を苦境に墜らしむ。
六、明治二十四年十月
濃尾大地震、幸いに当地は震源地を去る遠きにありしを以って、唯、土蔵の壁を落し、棚の上の器物破損の程度で事済めり。
七、明治二十七年
大旱魃、入梅時の五月雨も此の年ばかりは、毎日快晴続きで、連日に亘る雨乞の祈祷もその甲斐なく、八月中旬に至るまで、僅かに三回の小雨を見しのみ、丘は土乾きて灰となり、川は水潤れて、川底に、ほこりを見る。清水の湧出て、百を植付け得られた田は、全村を通じて、三、四枚に過ぎず、総て早苗を植うることを得ずして空しく荒地と化す。勿論畑の耕作物は全面に枯死す。飲料水にも事欠く日々を送る。東海道筋には旅人の餓死せる姿さえ見受けられたりと。
八、明治三十五年五月二十五日
大雹害、午後五時頃の事なり、折から劇しい雷音に伴ない、黒雲渦巻き来ると見る間に、天地をゆるがさんばかりの音響に、直径五分程もある大雹の降ることしきりなり。雹の降り積ること三、四寸に及ぶ。折角実りを待つばかりの麦類は全滅、蚕に与へる桑葉も用を成さず、止むを得ず蚕の幼虫を川え捨て去る仕末なりき。
九、大正十二年九月一日
関東大震災、午前十一時五十八分、突如上下動の大激震、咄嗟に起り其の震動極めて峻烈、凄槍極る災厄をもたらし、許多の財宝と生霊とを烏有に帰せしめてしまった。当地域の約五割に及ぶ家産は全潰、殆んど残る家屋は半潰に近い。第一震後も約一分置き位いに余震が襲来し、生ける心地だに無い。その中にあって村民は一致協力、火災の発生防除に全力を尽くす。時恰も昼餉用意の最中、戸外避難の前に、火気の存する所には水をかけ、或は鉢などにて蔽い、当永野地区からは全く火災を生ぜさせなかった。
正午を過ぎて間もなく、横浜市街地上空は黒煙濠々渦巻いて空高く立ち込め、物凄い光景が当地区から見られる。時折大爆音を耳にす。横浜港沖合に富士火山系に亀裂を生じ大噴火を成しつつありと流言が飛ぶ。後に、石油、ガスタンクの爆破と分る。
各所に山崩れ起り、道路埋没して交通途絶数ケ所生じたが、全村民総出動で土砂を切り開き、三日後には全箇所開通した。
九月二日正午近くより、刻一刻、戦慄すべき流言が宣伝され、村民挙げて戦々競々と、各小部落互に山の中に小屋を設け、老人婦女子は、まとまって、小屋にかくれ、青年、屈強な男子は、各要所要所の部署に就き、見張り、警戒の任に当たる。間もなく軍隊が到着し全村民安堵し、安き眠りに就くことを得た。
当時、当地域は鎌倉郡に属す。震災当時の往復文書の一端を掲載して当時を偲ぶこととする。
九月三日 鎌倉郡長
各町村長殿
各小学校長殿
本日ノ降雨ハ飲料ノ汚濁卜相侯ッテ伝染病ヲ発生シ保健衛生上殊二注意ヲ要スルモノアリ、仮小屋トイヘドモ湿気ヲ受ケザル様設備サレ、各々自重シテ、保健衛生上二注意セラレタキヲ望ム
状況報告
一、県庁舎ハ地震ニテハ崩壊セザリシモ類焼セリ
一、横浜市ハ九分通リ焼失ス
一、伊セ町西戸部官舎ハ全部焼失
一、本日歩騎兵及群馬県警察官二百名応援二来着ノ筈
一、長官始メ庁員ハ大部分無事
一、臨時県庁ハ花咲町海外渡航者検査所ニ仮設セリ |
関東戒厳司令官 告諭
今般勅令第四〇一号戒厳令ヲ以テ本職二関東地方ノ治安ヲ維持スルノ権ヲ委セラレタリ
本職ノ隷下ノ軍隊及諸機関ハ全力ヲ尽シテ警備救他二従事シツツアルモ、此際地方諸団体及一般人士モ亦極力自衛協同ノ実ヲ発揮シテ、災害ノ防止こ努メラレムコトヲ望ム
一、不逞団体ノ蜂起ノ事実ヲ誇大流言シ、却ッテ紛乱ヲ増加スルノ不利ヲ招カザルコト
帝都ノ警備ハ軍隊及各自衛団二依り既二安泰二近ヅキツツアル
二、糧米欠乏ノ為 不穏破廉恥ノ行動二出テ若クハ其ノ分配等二当り秩序ヲ紊乱ス等ノコトナカルべキコト
右 告諭ス
大正十二年九月三日
関東戒厳司令官陸軍大将 福田雅太郎 |
九月三日 陸軍当局談発表
今回ノ震災二関シ東京及神奈川県ニ戒厳令ノ執行卜共二関東戒厳司令官ハ福田陸軍大将二勅命セラル近衛及第一師団︵甲府、佐倉ヲ含ム︶ ハモトヨリ、千葉教導聯隊、宇都宮歩兵二個聯隊、高崎聯隊、高田歩兵三個聯隊、其他仙台弘前金沢豊橋名古屋京都広島ノ工兵諸部隊ヲ併セ指揮下二隷セラレタ而シテ東京外ノ諸隊ハ今朝来、現二陸続到着シツツアル
此ノ戒厳トハ戦時又ハ事変二際シ兵力ヲ以テ一地方ヲ警戒スルコトデアッテ、地方ノ行政司法事務ヲモ戒厳司令官ノ管掌二委スルコト勿論デアルガ、今回ノハ特二市民ノ惨害ヲ軍隊ノ実力ヲ以テ救恤セシメラル趣旨に出デタノデアル、故ニ市民諸君ハ軍隊ノ行動ニ力ヲ協セテ同
胞ノ救護卜秩序ノ維持ニ努メラレンニトヲ切望スルノデアル
﹁注﹂右の陸軍当局談の発表によって永野地区住民は、ほんとうに安堵の胸を撫でおろし、部落互に順番を定めて、半潰家屋の建起し、全潰家屋の取片附の作業に、相互扶助で、尽力し合う。殊に不衛生に成り勝ちから此際悪疫でも流行しては大変なことと此の点に関しては村内全力を傾注してその防除にカを尽した。
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通 牒
大正十二年九月七日 鎌倉郡長
各小学校長 殿
今回ノ震災こ就テハ各位ハ私事ヲ放擲シテ公共的義扶的精神ヲ以テ各方面ニ亘り活動セラレツツアルハ誠ニ感謝ニ堪エザル所ニ候、今ヤ地方ハ追々安静ニ復シツツアリト雉モ尚諸君ニ俟ツモノ多々可有之侯、各位ハ部下職員卜共ニ努力精励、地方ノ情勢二随テ、此際各方面ニ一段ノ御尽瘁アラムコトヲ左ノ二、三ノ事項ヲ掲ゲ御願申上侯
小学校ハ此所当分、開校ノ必要無之卜被存侯、時機ヲ得テ、露天林間、又ハ二部教授等ヲナスニ危険ナキ場所 ノ細密ナル調査ヲナシ、地方ノ情況ヲ斟酌シテ後日開校
ニ至ラン準備ヲナシオクコトニ御考慮アランコトヲ申送リ侯
以 上
震災報告、本郡ノ被害状況ヲ知ラルルニ便宜カト認メ御覧ニ共シ侯也 |
九月十八日
各小学校長殿 茂 郡長
本郡ノ震災ハ他郡市ニ比シ激烈ナルモノアリ、東海道ヲ劃シテ南方海岸二近ヅクニ随ヒ一層甚ダシキモノアルヲ見ル就中鎌倉町及腰越津村ニ於テハ数ケ所ニ火災ヲ起シ商業区焼失セラレ鎌倉及片瀬ニ在リテハ丈余ノ海嘯襲来シ水火並ビ臻リタルタメ一家全滅シタルモノ砂ナカラ
ス、惨状見ルニ忍ビザルモノアリ
海嘯ノタメ電信柱ノ橦ニ浮上リタル一女ノ言ニ依レバ海嘯襲来ノ際、由比ケ浜ニ徘徊シ居リタル百名内外ノ人ハ海嘯ニサラハレタルモノノ如シト、又片瀬江之島間ノ架橋ハ海嘯ニヨリ墜落シタルタメ、偶々橋上ヲ、通行シ居リタル数十名ハ溺死シタリシトイフ
一、鎌倉郡ノ被害
家屋総戸数一万二千三百四十二戸ノ中、倒壊戸数八千六百九十四戸ニシテソノ百分比七〇・四二当ル
死者、六百十四人、負傷者二千四百八十三人ナリ、著名ノ方ノ被害者ハ山階宮紀殿下ノ御即死、賀陽宮大妃殿下ノ御負傷及松方公ノ負傷ナリ
著名被害家屋ハ、郡庁舎︵建長円覚両寺ハ山門卜付属建物ノ一部ヲ存スルニ過ギズ国宝ハ大破損ナシ︶
鎌倉八幡宮楼門拝殿、戸塚小学校、鎌倉小学校、鎌倉女学校、戸塚町役場、鎌倉町役場ハ全壊、鎌倉宮ハ小破ニ止マル
二、警備
震災直後京浜地方ヨリノ避難者ニヨリ流言斐語相伝ハリ人心胸々タリシヲ以テ警察署長卜協議シ自衛団ヲ組織シ、民心ノ安定ニ努メ、一面出兵ヲ要求シタルニ間モナク、警備隊ノ守備スルトコロナリタルタメ人心漸ク安堵シ、今ヤ全ク平常ニ帰セリ、中ニハ軍隊引揚後ニ、出獄者、失職者等ニヨル強窃盗ノ徘徊ヲ杞憂スルモノアルモ、現状頗ル平穏ナリ
三、傷病者ノ救護
藤沢地方警備隊ノ司令官指揮ノ下ニ戸塚鎌倉片瀬ニ軍医ヨリ成ル救護班ヲ置キ、地方医師卜共ニ傷病者ノ施療ニ努メツツアルノ外片瀬ニ於イテハ千葉医科大学ノ外科ノ大家三輪博士等、偶々同地滞在中ヲ奇貨トシ是亦施療所ヲ開始し、相俟テ診療二従事シツツアルタメ、傷病者ノ救護上遺憾ナク、一般ニ之ヲ徳トシ居レリ、近日中ニ、日本赤十字社神奈川支部ニ於イテモ活動ヲ開始セントス。
四、食糧品配給
本郡ハ京浜地方ニ接近シ居ルタメ避難者続続襲来シ総人員弐万六千人二及ブ、之ガタメ農村民ハ余剰ナキ糧米ヲ侵食サレ恐慌ヲ来スニ至リタルヲ以テ郡吏員ヲ派シ町村長卜共ニ村内貯米者ヨリ徴発シ之等避難民及貧困者ノ救護ニ充テル、之ガタメ本月十五日マデノ徴発米九百九石余ニ及べり、現下食糧品円滑ニ向ヒツツアルヲ以テ米ノ徴発ハ本月十六日以降郡二於テ統一シ容易ニ令状ヲ発行セザルコトトセリ
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﹁注﹂大震災に付随して起る災害については、関東大震災の記録等から次の点が挙げられる。
1 大火災の発生
人家の密集地帯程被害が大きい、家屋倒壊の死者よりも火災による焼死者の方が断然多い。
東京府内 焼死者 56,774人︵警視庁調︶
溺死者 11,233
圧死者 3,608
負傷者 31,372
東京府の例を見ても一目瞭然である。
横浜市 総戸数 93,840戸
焼失戸数 55,826
倒壊戸数 18,149
家屋にしても地震による倒壊よりも火災焼失の方が数倍に上っている。殊に悲惨を極めたのは正金銀行︵現県博物館︶の建物の堅牢なるを思うてここに避難した多数の人が折角の頼みも甲斐なく猛火の包囲に雪崩を打って地下室に入り込んだまま折り重って全部蒸焼になってしまったことである。
2 水道、電気、電話、道路、電車、汽車の通信交通は全面に途絶する。
3 余震の継続
大地震の後は引続き、地鳴りを伴った余震が引っきりなしに襲ってくる。大地の各所に亀裂を生じ余震によって亀裂に挟まることがあるので、注意せねばならない。
4 伝染病の発生
5 海嘯︵つなみ︶ の襲来
海辺近くに放した場合直ちに配慮しなければならない。
6 流言蜚語が横行する。人心が極度の不安に襲われると常識では考えられない程、冷静さを失い、馬鹿馬鹿しいとさえ思うことを信じきってしまうことになるものである。当時の関東地方在留の朝鮮の方々には誠に申訳けない程の気の毒な思いをさせたものである。
7 食糧飲料水の不足
食糧倉庫の焼失、交通機関の杜絶から他地域から食糧が得られない、勿論精米所もその機能を失っているので精米は出来ない。当時どの家庭でも空びんに玄米を入れ竹棒でつっついて白い米を得るのが一仕事であった。
8 失業者の続出
商店、工場の焼失により、職を失う者の数増大し、失業者問題は社会秩序維持の上に最も重大なものとなってくる。
大要以上のようなことが震災に伴って波生することを覚悟せねばならない。都市造りに最も重要視しなければ ならないことは思いきった多くの空地、緑地を持つこと
である。