六、古文書、古記録
1 奉寄附官免之事
此度当村鎮守 天満宮宮免無御座候二付村中惣代氏子共相談ヲ以赤羽田米弐俵代之場所元来堰川二而御座候所開発仕当丑ノ年ヨリ宮免ニ附置申侯然上者自今貴僧様別当 御寺之儀ニ御座候間右之田永々御支配被成此助成ヲ以年々正月五日ニ者為祭礼御湯立被成 天下安全並氏子繁栄之御祈念可被成下侯勿論御官御修覆等之節者毎例之通リ惣氏子中持寄奉修造侯間共節ハ貴寺様ヨリ被加助力ヲ可被下候且又湯立当日之世話役等者例之通村ヨリ出シ可申侯尤右之段後々末代迄御申継被成右之趣年々相募り可申侯ハバ、此田地二付村中氏子共少茂申分無御座候双方為後日書付ヲ以入置申侯仍而如件
宝暦七丁丑年極月
○○衛門 印
・・・・以下41名の記名あり
貞昌院和尚様
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﹁注﹂ 宝暦七年は昭和四十六年より二二日十数年前当時名主 といえども姓を名乗ることが許されていない。殆んどの人が右衛門、左衛門、右兵衛、左兵衛がついているのが面白い。
尚、文面に明らかなように神仏混交の時代で別当寺院住職が神社の祭礼に現在の神官の勤めをする、即ち天下安泰、氏子繁栄の祈念を行なっている。
名主とは現在の町会長、自治会長、年寄が副会長会計に相当している。
2 地誌御用取調
泊 付
六日 神奈川宿 、
七日 永ケ谷上村
右泊ニ相成侯間上下四人之旅宿壱軒用意可之侯
一、永ケ谷上村江申入侯 最初其村江罷越御用向取調侯間可被得其意侯尤調方之儀者着之上可申談侯以上
何村
一、当村之儀者何領に御座候
一、郷名者何々と申侯
一、庄名者何々と申侯
一、村名之起り者何々之訳に而何村と名付軒侯由申伝侯
一、何年頃開発之由に御座候
一、江戸日本橋迄幾里御座候
一、家数何軒御座候内寺何ケ寺百姓家何軒
一、東隣村南隣村西隣村北隣村何村に御座候
但東西南北之外に而茂地境に相成侯村者書載せ可申事
一、東西村境より村境迄何町程、南北村境より村境迄何町程
一、土性者何土に御座候
一、田方反別何程
一、畑方反別何程
一、水損場か干損場か
一、土地相応之作物名物何々に御座候
一、耕作之間何稼仕候
一、用水 何用水に組合申侯
但天水場に有之侯はば其段可認出
一、何往還何海道に御座候尤道幅何間
但隣村何村境より何村境迄当村持地に御座候
一、御料者古来より御代官名前当時御代官名前私領者往
古領主名前其後何々之誰当時何々之誰知行所に御座候
一、東叡山御領老何年何月右之領に相成侯訳可取調侯
一、検地者何年何月之誰御故に御座候
当時右之御水帳相用申侯
一、飛地何村之内に御座候 此反別凡何程
一、持添新田何々方に御座候此反別何程
但検地者何年何月何之誰
一、高札場何ケ所村之何方角に御座候
一、小名字何々と申処御座候 但し耕作字とも可入
一、山林何ケ所御座候 何山何林と唱へ申侯凡反別何程
一、何川何村より当村之地所に移り隣村何村之方江流れ申侯 川幅何間程
一、橋何ケ所 何橋と唱申侯 長何間
一、池何ケ所
一、沼 溜井何ケ所
一、渡船場 但何川に有之船数
一、秣場何ケ所 流作場何ケ所
但此反別何程御座候
一、堤何ケ所 隣村何村境より何村境迄当村持に御座候
但当村長何問 高さ何尺
一、何々社 村内惣鎮守 何寺持 神主持
祭神何 神体者何
拝殿何神
本地仏
勧請何年何月
祭礼何月何日
御朱印
棟札
古書物
古鰐口
神宝
縁起
神木
末社何々
一、何寺 何宗何国何郡何村何寺末何山何院
本尊 何立像か座像か作人之名文何尺
開山 何和尚何年何月幾日遷化
開基 法名何俗名何何年何月幾日卒
中興 何和尚
御朱印 何年何月何日始而頂戴
什物 何々寺宝
鰐口 但近年のものならば記に不及
鐘 何年何月建立
境内之堂社寺中何ケ寺
一、修験 何山何院 何村何院支配に御座佐
一、何社堂何ケ所 村持か寺支配か
一、穢多
一、塚 何ケ所
一、古墓
一、名所古跡
「城跡 陣屋跡 屋敷跡 寺跡
一、昔より当村出生之名僧又老大力惣而名高く成り侯人
一、百姓之内古き家柄系図古書物井武具馬具等所持之者
其外家筋古きもの誰々と中老御座候
一、孝行寄特等に而御褒美被下侯者之名
右之通取調申侯処相違無御座候
御代官何々誰支配所か
何々之誰知行所か
支干何月
何村
名主 誰
年寄 誰
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﹁注﹂高札場とは現今の掲示板と思われる。
﹁注﹂耕作之間何稼任侠は、直接農耕に従事していない。農閑期即ち冬季や雨天の時のような場合はどんな仕事をしているのかと尋ねている。
﹁注﹂耕作字とは耕作している田畑の所在を判明させるように、その土地に字名を付けている。普通の字名は人家の所在を村名より小分けしてつけてられいる。
﹁注﹂上記地誌御用取調は地頭所より各村名主に渡された記録で昭和四十六年より約百三十数年前のものである。当時この地域の住民の職業は僧侶の外は皆百姓で農業に従事し、寺院住職は寺小屋を経営専ら村内子女の教育の任に当る。
地誌詞御用出役
御用先触
東海道品川宿始め
一、賃人足 六人 但内 両掛弐人 駕籠四人
○○右衛門 ○○之助
右者地誌詞為御用明六日朝六ツ半時江戸表出立 其筋罷通侯条 被得其意書面之人足無滞継立何之侯 尤渡船場有之場所前後宿村申合無差支様可被取計侯 此先触 早々順達永谷上村着之節可被相返侯以上
壬八月五日 地誌調御用出役
○○○助 印
○○○門 印
東海道
品川宿より
程ケ谷宿夫より
相模国 鎌倉郡
永ケ谷上村迄
右宿村 役人中
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地誌御詞書上帳
永谷
一、当村之儀者領相相知れ不申候
一、郷名者 永谷郷と申侯
一、庄名者 山内庄と申侯
一、村名起之義老相知不申侯
一、何年之頃開発に御座候哉相知不申侯
一、江戸日本橋迄十里御座候
一、家数五拾参軒 内寺弐軒 内壱軒上分壱軒下分 堂壱軒 下分 百姓五拾軒 内参拾参軒 上分 拾七軒 下分
一、山上峯境七里歩と云道を隔つ久良岐郡
一、東隣 松本村 南隣 上野庭村 西隣 舞岡村 北隣 平戸村に御座候 東南之間下野庭村 南西之間小菅谷村 但し西北之間柏尾村 北東之間久良岐郡引越村 岡別所 同久保村に御座候
一、東西村境より村境迄 凡弐拾丁程
南北村境より村境迄 凡参拾丁余に御座候
一、土地者赤土黒土に而悪地に御座候
一、田方反別弐拾四町六反壱畝六歩
一、畑方反別参拾弐町弐拾八歩
一、水損場無之 干損場有之侯
一、土地相応の作物に名物無御座候
一、耕作之間藁仕事仕侯 但し手前遣
一、用水掛侯場所も御座候 又者天水泥水に而仕付侯場多御座候
一、往還海道無御座候
古海道者村の東南方え下野庭村より入久良岐郡久保村に入此道今者廃せり
一、御料無之古来老松平大和守様山田立長様鈴木隼人様 蜂屋七兵衛様其後者文化八未年三月︵昭和四十六年より約百六十年前、以下何年前は昭和四十六年を起算す︶松平肥後守様御領分に相成申候 文政四己年三月︵約百五十年前︶蜷川相模守様御知行に相成申侯
一、助郷戸塚宿定助
一、東叡山の御領者無御座候
一、検地者天正拾九卯年︵約四百年前︶彦坂小刑部様御検地御座候 右者御水帳相用申侯
一、飛地北之方平戸村之内に御座候 此反別凡四町四畝
一、持添新田無御座候
一、高札場無御座候
一、小名字者半在家柳橋 伊予殿板 丸山 天神前 木曽 中里 水田 鍋谷戸 有花寺 宮田 山谷
一、山林者何山何林と唱申者無御座候
一、何川と申程之川無御座候
馬洗川村の中を南より北江流れ水元上野庭村で末は上柏尾に至り柏尾川に入古鎌倉街道通路之時馬を洗いし川也と申侯
一、橋壱ケ所有花寺橋と唱申侯長さ三間半
一、池無御座候
一、沼溜井無御座候
一、渡船場無御座候
一、秣場壱ケ所、流作場無御座候
一、堤無御座候
一、天満宮 村内惣鎮守 別当 貞昌院 縁起に御座候
御除地廻り山弐反歩
祭礼九月廿五日百姓少々之作初穂を以祭礼仕候
神宝天満宮所持之硯 宝剣 馬玉 末社 妙義 白山 妙見 稲荷
古者天台宗に而上ノ坊下ノ坊とありしが廃寺となり後年貞昌院起立して別当となる。古上の坊下の坊とて天神之供僧ありしと申侯
一、貞昌院、曹洞宗、相州鎌倉郡山田村徳翁寺末同州同郡永谷村天神山貞昌院 御除地五反歩
本地十一面観音木座像丈八寸余 行基作 開山明堂文龍 天正拾九年卯四月十六日寂す
開基俗名 相知不申侯 中興 十四世大賢 寛政五丑六月十八日寂す
寺起立天正十年月相知不申侯 御朱印無御座候
古文書古朱印古縁起古鏡古鰐口無御座候 寺宝無御座候 鏡無御座候 仁王門楼門山門無御座候 寺中無御座候
一、般若寺 古義真言宗 武州久艮岐郡大田村東福寺末
無量山般若寺
本尊阿弥陀如来主仏立像 作仏に無之 開山開基相知不申侯 右者焼失に付相知不申侯
一、修験 無御座候
一、社四ケ所 貞昌院持 神明弐拾歩 羽黒拾五歩 浅間拾五歩 大神宮拾歩
一、堂壱軒 平戸村光安寺持
本尊地蔵を安ず 地蔵院と云う 丈弐尺余
一、穢多無御座候
一、塚無御座候
一、古墓無御座候
一、城跡陣屋跡屋敷寺跡無御座候、乗国城跡詳ならず
一、昔より当村に名高き者無御座候
一、百姓之内古き家柄古書物武具等其外家筋古きもの無御座候
一、孝行奇特等に而御褒美被下侯老無御座候
右之通り御尋に付奉書上侯処相違無御座候以上
文政七甲申年壬八月 日
相州鎌倉郡永谷上村
組頭 ○○○○門
名主 ○○○兵衛
同 ○○○兵衛
地誌御調御用
○○○○衛門様
○○○○之助様
前書之通り御改に付奉書上侯処相違無御座候以上
文政七甲申年九月 日
鎌倉郡永谷上村
名主 ○○○兵衛
御地頭所様
御役人中様
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﹁注﹂右境界記録より永谷は上分下分と分れ、後に上永谷、下永谷、さらに中永谷となる。
現町内会自治会の属する地域は左記のとおりである。
上分 上永谷 上永谷町内会 富士見台自治会 美晴台自治会 月見台自治会 勧永自治会
下分 中永谷 あざみ団地自治会 中永谷団地自治会 八木台団地自治会
下分 下永谷 芹ケ谷町内会 下永谷町内会 浩南台自治会 芹ケ谷団地自治会 渡戸自治会 黄金苑自治会 桜台自治会 みどり団地自治会 三枝木台自治会
千代田化工丁二棟自治会 同二・三棟自治会 三井団地自治会 あざみ団地自治会 西港南自治会 芹ケ谷台自治会 日限山自治会 日本道路公団港南住宅自治会
上地域の総戸数五拾参戸となっている
﹁注﹂田畑合計五拾六町六反弐畝四歩となる。当時の百姓農家戸数五拾戸なので平均耕作地面積壱町歩以上となる。相当の大農家であったことが推察される。言い伝えでは徳川時代の農家は大家族制度で百姓嫌いの者は他地方へ転出したとか。
﹁注﹂ 人権上注意すべき表現がありますが、資料としてあえてそのまま掲載しています。
3 村高家数人別書上帳
相州鎌倉郡永谷上村
名主 ○○衛門
一、高四百弐拾壱石四斗五升六合
安政元寅年御高入
内 高四石六斗壱升壱合 畑新田
高三石五升壱合 字関山 高壱石五斗六升 字寺脇山
内 高八拾石 無地高
高八斗四升五合 御伝馬除キ高
高弐百四拾三石 戸塚宿御伝馬勤メ高
一、家数 三拾弐軒
人数百九拾八人
男百弐人
内 四人 村役人
壱人 定使
七人 六十才以上
弐拾四人 拾五才以下
弐人 縁付
拾弐人 病身者
三拾壱人 他所稼奉公出之老
女九拾六人
馬 七匹
牛 御座無く候
一、村方秣場 永弐貫文宛上納仕候
一、御林
五町八反九畝弐拾壱歩 五ケ所
下草掃除手八人足
三百四五拾人位 壱ケ年分
村人足二而仕候
一、蚕 無御座候
一、紙漉 同断
一、御公儀様川之御普請所 国役金 百石ニ付銀弐拾九匁九歩上納任候
一、家大工 三人 農業間々仕候
一、木挽 一人
一、東海道往還掃除丁場四拾九間弐尺 掃除之儀者村人
足 道普請大破之節者村人足二而助合仕候
右之通り奉書上侯 相違無御座候
相州鎌倉郡永谷下分
一、高九拾三石
此反別拾壱町壱反四畝拾三歩
内 七町五畝拾七歩 田方
四町八畝弐拾六歩 畑方
四反八畝弐拾八歩 屋敷
安政元寅年十二月 御検地 斎藤嘉兵衛様御縄入
村方百姓え被仰付侯
右ニ付新田百姓無御座候
一、御伝馬飼草 中村百姓持山二而苅来り申候
田畑図草薪物之儀
一、家数 弐拾壱軒 寺壱軒 堂壱軒
内本村百姓拾軒 越石蔵地百姓三ケ所九軒
一、東海道普請手入人足
一、東海道往還掃除丁場拾九間弐尺二御座候
一、鎌倉大筒御用人足賃割合被仰付候
一、戸塚宿御伝馬役二付郷宿え米四斗遣シ申侯
一、農業之間男女稼薪取莚織縄杯手前遣ヒ売物一切無御座候 田畑共米納年々御廻米被仰侯
一、家大工 桶屋 鍛治屋 木挽 無御座候
一、鉄砲所持者 無御座候
右之通リ奉書上侯 以 上
文久二戌年七月
名主 ○○衛門
同 ○○○衛
○○○○様
○○○○様
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「注」文久二年の頃 永谷上村 三拾二戸 同下村二十一戸 計 永谷全戸数 五拾参戸
当時 東海道の修理、掃除作業は 戸数に応じて各村毎の受持間数が割当てられていたことが分る。税は米で物納のように見受けられる。
4 明細書上帳
一、高四百拾六石八斗四升五合 永谷上村
内高七拾九石九斗九升四合 無地高
高七升三合
文化十二亥年
○○○右衛門殿江掛合改減
此反別
五拾六町六反弐畝四歩
内弐拾四町六反壱畝六歩 田方
壱町参段弐畝弐歩 諸引
三拾弐町弐拾八歩 畑方
拾町三段壱畝壱歩 諸引
御林山桧木御植付
一、三町四反三畝一歩 字中里山
一、壱町弐反壱畝弐拾五歩 同笹山道徳山
一、壱町弐反壱畝弐拾五歩 同荊山
一、山拾四町八畝弐拾壱歩 百姓持山
此取永九百八拾六文
一、山壱町八反六畝拾五歩 百姓持山
此取永百五拾八文五分弐厘
一、家数 五拾三軒
一、寺 弐ケ寺
一、人別合 弐百八拾八人 僧 壱人
男百三拾五人
女百五拾三人
一、貞昌院 山弐反歩 御除地
一、般若寺 屋敷畑壱反八畝弐拾八分反二百三拾五文
此取永弐百五拾五文此口永七文六分七御上納仕り右之畑作付侯場も無之御年貢御手馬役其外諸入用等相勤め貧地無住に有之難渋に御座候に付米三斗三升九合補米として年々御下ケ被下置侯
一、地蔵堂 堂地之分 御除地
神社五ケ所
一、鎮守天満宮 山五反歩 御除地
羽黒山 山拾五歩 御除地
神明宮 山拾五歩 御除地
大神宮 山拾五歩 同断
浅間宮 同弐拾歩 同断
一、東海道戸塚宿江 道法 壱里拾弐町
右宿方江御伝馬相勤候
一、村方近年困窮仕詰侯に付御伝馬御免除歎願仕侯処文久四年子二月分来ル戌正月迄四分通り御免除被成下置侯
東海道掃除丁場 六拾九間弐尺
一、当村之儀者赤土黒土悪地に而山際北向に御座候
村内川筋の儀者野庭村小菅ヶ谷境より柏尾村え流出侯
一、田畑肥之儀若草刈入仕附仕侯
一、男女稼之儀者農間に木綿糸又者縄筵自分遣井に冬春間に薪取仕侯
右之通相違無御座候
相模国 鎌倉郡 永谷上村
名主 ○○○門 印
同 ○○○衛門印
慶応四年九月 日
○○○○左衛門様 御附属
○○○○ 様
明細書上帳 永谷下村
○○右衛門
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﹁注﹂慶応四年当時、永谷村の戸数五拾参戸、人口二百八拾五人 二戸平均五・四人強 東海道戸塚宿江、道法︵みちのりと読む。距離のこと︶
田畑肥即ち田畑へ施す肥料は、革を刈って積んでおき堆肥を使用していたことが分る。言い伝えでは春から夏にかけては早朝薄明から草刈りに精出し、朝食前に相当量の革を刈り込み、畑用には堆肥、水田用には干草として保存した。
農耕作業の出来ない雨天時、冬の農閑期には、木綿糸をつむぎ︵綿を栽培す︶殆んどの家庭に機織器があって綿布を織り衣服を作る。縄、莚を作る。自分遣とは製作した綿布、木綿糸、縄莚等は自家用として作るのであると云う意味で、商品として売物にはしないということである。
燃料は冬の間に薪を切って用意しておく、小笹竹︵しこという︶や松葉の落葉、麦がらを使用した。落葉樹の落葉もかき集められて堆肥の材料とした。
明細書上帳 永谷下村
○○右衛門
一、上田九町三反三胡拾歩
一、中田六町二反六畝四歩
一、下田九町六反拾弐歩
一、上畑六町四反弐拾九歩
一、中畑八町壱反弐畝弐拾七歩
一、下畑拾六町壱反弐拾弐歩
一、坪畑壱町八反三畝弐拾九歩
田畑反別合而
五拾七町七反九畝廿四歩
此分米四百石九斗八升五合九勺七才
一、山弐拾六町五反弐畝廿歩 惣百性持山
此取永弐〆百八拾文四分四厘
但し反に付永八文取口永弐分五厘取
一、山四町歩 村中入会
此取永弐百五拾文
但し反に付永六文 口永弐分五厘
一、鎮守 神明官 壱ケ所
一、四季折玉込鉄砲三挺猪鹿のため御下ケ被下
一、用水堰弐ケ所上村入会扶持米壱俵五升年に被下候
一、戸塚宿定助郷御伝馬役
高三百石前々より相勤来り申侯
極困窮之村方故去る文久四年子二月より来る成正月迄十ケ年之間四分通り休役被仰付侯
右之通り奉書上侯 相違無御座候 以上
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﹁注﹂ ︵四季折玉込鉄砲三挺猪鹿防のため御下ケ被下︶とあるは当時この地区の山中に猪︵いのしし︶鹿などが住んでいて人畜、耕作物に被害を及ぼしていたことが分る。
明細書上帳の下村の分に家数、男女別人口が表われていないが、上村の分の数の中に下村分が合算されているのではないかと推定される。