今月12日に公開された映画﹁この世界の片隅に﹂が、上映館は少ないもののSNSや口コミで広がり満席や立見が続いている館も続出してるようです。
あらすじは、戦中、広島市から呉へ嫁いだ主人公すずの日常をもとに展開されていく物語なのですが、内容や感想等についてはネットやSNSで溢れているのでここではあえて記載しないでおきます。
︵海外向け予告編↑をご紹介し、是非映画館で観ておくべきお勧めの映画とだけ書いておきます︶
さて、今回のブログ記事は、この﹁この世界の片隅に﹂をもとに、私もパネリストとして参加した みんなでつくる横濱写真アルバムシンポジウム﹂(2009年・於BankArt1929Yokohama︶でのテーマ﹁記録されたものしか記憶されない﹂についてまとめてみます。
みんなでつくる横濱写真アルバムは、横浜開港150周年事業として、何気ない日常を撮影した写真を広く市民から募り、それをタグ付けして時系列・場所別に整理してデジタルアーカイブ化していくというものでした。
上記シンポジウムや写真アルバムは、街の歴史の再発見と次代への継承、そして﹁記録されたものしか記憶されない﹂︵ー私たちの暮らしを丹念に記録した写真を収蔵保管しておかなければ、それがこの国の歴史の中から無かったことになってしまう︶ということからスタートしました。
シンポジウムでは、宮本常一という写真家の功績を例に考察しました。宮本氏は戦前から戦中・戦後まで日本各地をフィールドワークし続け膨大な写真記録とメモを残しました。
新しい街に着いたら駅の構内の様子、人々の身なり、荷物などさまざまなことをつぶさによく観察し、そして集落の一番高いところに行き、集落全体の様子を把握したといいます。 人並みならぬ洞察力は日本各地をフィールドワークし続けたことから得られた力なのでしょう。
10万点を超える写真はいわゆる芸術でも写真何でもない日常の写真でありますが、例えば洗濯物の写真は、その家庭の暮らし向き、流行、あらゆる情報を含有しています。
海岸に打ち上げられた流木の写真からは、貧しい資源を共有する村の智慧を読み取ることができます。
杉皮を干す写真からは、その周辺に皮を剥かれた切り出された杉の木があり、山肌から木を滑り落とすために杉皮を使い、筏で川の下流に運ぶ一連の姿までもが含有されています。
写真の持つ力というのは計り知れないのです。
それゆえに写真に込められたこれだけの思いを読み取る読み手側のリテラシーも求められます。
宮本氏は、また、一種タブーとされている被差別部落や、性風俗などの記録も行っており、デジタルアーカイブに立ち向かうものにとって大きな示唆を与えてくれるものでもあります。
例えば﹁みんなでつくる横濱写真アルバム﹂に寄せられる写真のなかで、どこまでの線引きを行うのかというガイドラインも明確にしておく必要もあるのでしょう。
そのような示唆に富んだシンポジウムでありました。
話を映画﹁この世界の片隅に﹂に戻しますと、監督の片渕須直氏の姿勢は、宮本常一氏に通じるものを感じます。
映画製作に当たっては、こうの史代氏の原作を生かしつつ、まずは徹底的な資料取集、現地でのフィールドワーク、聞き取り、実証体験などを繰り返しながら製作にあたったそうです。
映画に登場する一つ一つの場面は、時系列としても矛盾がないばかりか、海に浮かぶ戦艦、走る列車、路面電車、さらには街を歩く人々も実在の人物を描いているという徹底ぶりです。
その徹底ぶりは下記のコラムをすべて読めばよく分かります。 ︵膨大な量です︶
■1300日の記録﹇片渕須直﹈
■すずさんの日々とともに
■﹁この世界の片隅に﹂は、一次資料の塊だ︵前編︶
映画製作に関わったヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の、﹃だれもその町や人のことを思い出さなくなった時、その町や人は消えてしまう。知らない町や人をどうすれば記憶することができるかというのがヒロシマ・フィールドワークの課題でした。映画﹁この世界の片隅に﹂によって中島本町は不滅の町となりました。﹄という、ことばも﹁記録されたものしか記憶されない﹂を端的に表しています。
悲惨な戦争の記憶を語り継ぐことはむずかしい。NHKが昨年行った世論調査では、﹁広島と長崎に原爆が投下された日はいつか﹂という問いに、正答できなかった人がそれぞれ7割に上った。時の流れは残酷だ◆しかし、1本の映画が、絶望することはないと告げてくれた。12日から公開されている片渕須直監督の﹃この世界の片隅に﹄は、こうの史代さんの同名漫画が原作の長編アニメである◆主な舞台は、戦前戦後の広島県呉市。のんびり屋で心優しい少女すずは、親が勧めるままに結婚する。嫁ぎ先での生活は厳しいが、スギナやタンポポで雑炊を作るなど、まずは工夫をこらして家族を支える◆だが、そんな穏やかな日常は、突如崩壊してしまう。空襲。大切にしていたものの喪失。故郷の広島市を襲う原爆。ほのぼのとした前半との落差が、戦争のむごさを浮き彫りにする◆制作に当たっては、支援の呼びかけに約3000人から4000万円近いお金が寄せられた。スクリーンに映し出されるのは、﹁戦争を忘れない﹂という人々の思いでもあろう。月が明ければ、まもなく日米開戦の日がやってくる。
︻編集手帳︼︵読売新聞2016/11/20朝刊1面︶
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映画の舞台となった呉市は重要軍港であるがゆえに地図やさまざまな記録が遮断された上に米軍からの徹底的な空襲を受け、また、広島市は原子爆弾投下により街全体が一瞬のうちに破壊されてしまいます。
歴史の記録の多くが断片的になったり失われてしまった場所です。
﹁この世界の片隅に﹂は、失われた記録をそのマイクロヒストリー︵ミクロストリア)=主人公の出来事、主人公目線の地域など、限定的な小さな対象についての徹底した歴史的調査を行う手法︶によって蘇らせながら、時系列に沿って物語が進んでいるので、上記リンク先にまとめられているような膨大な資料や時代考証に基づいた描写・音響効果と相俟って、鑑賞者があたかもその時代にタイムスリップして実体験しているような感覚さえ覚えるようになります。
﹁みんなでつくる横濱写真アルバム﹂は、寄せられた静止画の写真を時系列・場所・タグによりまとめたものでしたが、映画﹁この世界の片隅に﹂は、それを格段に昇華させた手法によって、呉、広島の街を不滅のものとして蘇らせているのです。
映画は主人公目線で進行しますが、主人公の周囲だけでなく、そこから垣間見える周囲・背景の広がり、繋がりまでも感じ取ることができます。
更に言えば、幅広い年代の方々が映画を観賞することによって、主人公すず目線の世界を世代を超えて共有できること。
記録を<傍観者‥第三者目線>ではなく、<当事者として直感的に>とらえることができるということ。
これは重要なことです。
この﹁共通疑似体験﹂をもとに、さらに一人一人が考証を重ねて追加することにより、記録に記録が付加され、ますます厚みのある記録になっていくことでしょう。
︵おそらくこの作業は自然発生的に行われる︶
生の戦争体験をもつ方がまだ少なからず存命である戦後約70年というぎりぎりのタイミングにこの映画が公開されたことも、きっと大きな意味を持つものだと感じます。
︻戦中の記録がリアリティーを持って輝く︼―このような日常は全国どこにでもあった―
以前、2005年のブログ記事太平洋戦争空襲~終戦の日において で、戦時中の永野地区︵神奈川県横浜市港南区︶の様子を記載した貞昌院先々代住職・亀野寛量和尚の記録を紹介しました。
永野地区はのんびりとした農村地帯ではあったが、横浜・東京へ向う空襲の経路、集落の高台に置かれていた高射砲、横須賀軍港が近いという点で共通するものがあります。
それゆえ、映画﹁この世界の片隅に﹂を観終わった後にあらためてこの記録を読むと、当時の様子を映像として、音響として、生々しく感じることができるのです。 とても不思議な感覚です。
『太平洋戦争空襲-終戦の日』
横浜の空襲は、昭和十九年の中頃から次第にその数を増して来た。始めは、極めて上空を、恐らく偵察か、又は空中写真撮影でもあらうか、相模湾から上陸、永野上空をかすめ、一直線に東北東に横浜の中央部を、一機又は少数機が通過する、ラジオはかけっぱなしである。
最初は敵機は余りにも上空なので、永野地区周辺の高地から、発射される高射砲陣地からの砲撃も、その砲弾の爆発というのであらうか、全く敵機には届かなかったので、その当時防空濠から半身乗り出して見ていた学童は歯ぎしりして悔やしがる。
憶か、本土空襲の二、三十分前には、警戒警報が先づ出され、敵機の数と進路が明確にラジオで放送される。
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サイパン・テニアンを拠点としたアメリカ軍による日本への空襲に対し、その想定ルートの高台や建物の屋上には﹁防空監視哨﹂が設置されました。
防空監視哨は軍の施設ではなく神奈川県警察部の管下にあり、上永谷の近辺では日野公園墓地の高台には﹁十五番﹂防空監視哨がありました。
防空監視の任務は、見張り台に上り双眼鏡で飛んで来る飛行機が敵機か味方機か、その方向・高度と機数を瞬時に判断し、その旨を早急に 警察電話で県庁にあった横浜監視隊本部に連絡するもので、監視哨長以外は全て地域の日野・日下・桜岡・永野・大岡青年学校の15-19歳の生徒がその任務に当たっていました。
︵﹃街づくりの歴史物語﹄︵港南歴史協議会編︶に防空監視哨の写真が掲載されています︶
サイレンは直ちに全市に鳴り響く、警戒警報発令と同時に、小学校への登校は中止、登校途中でも直ちに家に引き返し、警戒警報解除まで、待機の姿勢に在ることは、学童自身もよく心得、父兄もよく承知している。本土南方数百粁の地点に空襲に備えての偵察網があったものと推察される。
警戒警報発令時々刻々敵機の進路が報道される。途中進路が海上、東又は西に偏向すると、間もなく解除の報道となるが、依然として相模湾を目指してとなると必ず東京、川崎、横浜の空襲警報と変わる。
学童の登校姿は、必ず防空づきんを肩にかけ、万一の機銃砲弾による怪我の応急処理、ガス弾による応急マスク代わりに手拭所持の点検は特に厳しかった。
永野地区は当時未だ、昔ながらの純農地帯で、民家も疎で、むしろ疎開学童の受入れ地区であったので、次第に疎開家族、学童が日増しに増加の一途をたどる。市街地の親戚の者は、皆挙って頼って来たため、どの家庭も、大家族でひしめくようになった。曽て田圃等へ入ったことのない、親戚の婦女子の方も、田植草取りに精出す姿に﹁ヒル﹂に足を喰われて悲鳴を挙げる光景等随所に見られる。
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現在の港南区︵当時は中区︶エリアにあった4つの小学校のうち、日野・日下・永野小学校︵当時は国民学校︶は東京・川崎・横浜中心部からの疎開児童を受け入れていました。
逆に、桜岡小学校︵当時は国民学校︶は、児童56名が箱根に集団疎開しました。
永野地区の建物で最も目立つのは、永野小学校なので市防衛部の指示により、学校校舎の屋根は、迷彩といって、種々取交ぜた色に塗り換えられる。全職員と初等科三年以上の、警報の合い間を縫って、農協脇には百立方米、校庭の片隅に六十立方米の防火貯水槽の構築、警防団が、天神山下馬洗川からポンプで、一日掛りて貯水槽への満水作業、同じく職員と初三以上の学童で、校庭一杯に、避難防空壕を、市防衛部の指導で構築等やら、﹁ひま﹂栽培、﹁葛﹂﹁ちょ麻﹂﹁すすきの穂﹂﹁松脂﹂採取等の作業で、学業には殆んど就けなかった。
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永谷地区は幸いなことに、大規模な空襲を受けることは無かったのですが、東京、川崎方面より多くの疎開を受け入れていました。
貞昌院にも境内に十数人の家族と、やはり十人前後の兵隊さんが生活をしておりました。
兵隊さんの主な任務は、山から松の木と根を堀り出してきて、それを下野庭に作られた釜で乾溜し、飛行機の燃料︵松根油︶の製造を行うことでした。
村人や子どもたちはその松の根の掘り出しと製造の手伝いをしていました。
貞昌院の釣鐘と本堂前にあった天水桶は、戦時中鉄の供出のため撤去されていましたが、戦後になって、上記の松根油を煮出した鉄釜が戦後不要になったため、貞昌院の本堂に天水桶として設置されました。
︵現在の貞昌院の天水桶は、ブロンズ製の新しいものです︶
いざ学習となると、疎開学童の激増のため、一つの机に腰掛は空箱を利用して、四、五人宛坐席するという状態であった。然し学童には常に、横浜市内の大部分の学童は皆親下を離れて、遠く箱根、小田原方面へ、不自由をしのんで、集団疎開をしていることを知らせ、幸いにも当地区では、両親の下で過ごせることの有難さを考えさせ、ガンバラせていた。
偵察的な敵機の来襲の中には、超上空で爆弾、焼夷弾投下もなく、ただ高射砲陣地からは盛んな砲撃が目撃された程度であったが、続いて、夜間空襲に変った。
青年訓練夜学教室、職員室、使丁室、便所等は急遽黒布で作られた暗幕装置が施され、警防団の指導監督も極めて厳重となる。煙草を喫うにも、細心な考慮と注意を要した、之を燈火管制と称した。
小学校は、夜間空襲が激しくなると、校舎防衛のために、全職員宿直勤務の態勢に入る、万一の焼夷弾落下に備えて、校舎の到る処に満水のバケツ、﹁火はたき﹂を備え、空襲警報と同時に防空壕に入る。男子職員は、鉄カブトに身を固め、樹下に待機し、敵機襲来の状況を見守る、敵機の爆音が響くや、永野地区周辺を囲む舞岡、日野高地の高射砲陣地から、サーチライトが夜空を、射走る。サーチライトの交叉点に、飛行機の姿がハッキリ写る。飛行機の進路を追って共にサーチライトが動く、高射砲弾の炸烈の音が、耳をつんざく。時には舞岡上空に火の玉となった飛行機の姿が目につく。
敵機か身方機かは全く知るよしもなかったが、その時永野地区のあちこちから、高射砲弾の音に交って万才を叫ぶ声が谺する。夜間空襲では、編隊空襲で、丁度永野空の上に差しかかるや、一方は分れて横須賀方面へ、一方は直進して横浜、精々北方に向きを変えて、川崎、東京方面へと向っていたような気がする。さすがに軍港横須賀を思わせるものがあった。多分、横須賀近く到着と思われる頃、横須賀方面の夜空はサーチライトと高射砲弾の飛び交う光で、昼をあざむかと思われる光景が、永野小学校校庭の木陰から望まれた。空襲が激しくなるにつれて、何かと皇軍の不利がそれとなく伝ってくる。
今までは、常に本土上空へは、一機たりとも敵機は近寄せぬと、力強い報道を耳にしていただけに、不安に襲われることを禁じ得なかった。我が空軍の戦力が次第に衰えてきたため、夜間空襲は、次第に昼間の空襲へと変ってきた。
昭和二十年二月中旬頃と記憶する。
極めて上空を敵機が来襲するB29と思われる敵機の周囲を、姿は見えぬが飛行機雲の先端に、光るものがあって、数条のその先端が互いに機銃の打ち合いかと思われる様相を呈して、永野上空は、飛行機雲の大回旋模様で色どられる。爆弾も焼夷弾も投下なく、退散せしめられたようであった。警戒警報ははしきりに発令される。
昭和二十年五月二十九日午前七時半過ぎ、本土南方海上を飛行中の、敵機の大編隊が、梯段で、本土を目ざしている情報を聴取、直ちに学童登校中止の伝令は飛ぶ、続いて相模湾上空を目指しているとの情報が刻々と伝えらる。
やがて午前八時少し過ぎと思われる頃、学校校庭から見て舞岡方面から、突如として、B29の巨体の先頭機が、籠森天神山の上空を、低空で飛来し、続いて、整然と編隊を組んだ集団が、次から次えと現われ、丁度現在の美晴台渡戸の上空を過ぎたと思われる頃、第一梯段の飛行機から一斉に、黒色に見えた砲弾のようなものが次々と落下し始め、一時に大豪雨でもあるかのような響きが聞える。
更に第二、第三と、永野地区の上空を横浜の中心部目指して進む、大編隊の目撃には、唯駈然と恐怖とに身は固く何等なすすべを知らない。間もなく、小学校の東北の空は黒煙濠々と立ち上がり、大爆音が鳴り響く、横浜市街地の大部分は焦土と化してしまったのである。
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横浜大空襲は1945︵昭和20︶年5月29日に始まります。理由はその前日に行なわれた第3回原爆投下目標標選定委員会で横浜が目標から外されたことによるものでした。
アメリカ軍が、昭和20︵1945︶年5月10日に行なった第2回原子爆弾目標選定委員会での原子爆弾投下目標は下記の通りでした。
1.京都市‥AA級目標
2.広島市‥AA級目標
3.横浜市‥A級目標
4.小倉市‥A級目標
︵選定理由・直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること、爆風によって効果的に破壊しうるものであること、来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの︶
ここまでは横浜市が原爆投下目標都市の一つとされ、目標とされた都市は空襲が行なわれませんでした。
空襲が行なわれなかった理由は、原爆を目標の都市中心に投下し1発で完全に破壊することと、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようするためです。
1945年5月29日昼間、アメリカ軍によって行われた横浜市中心部への空襲はB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機による無差別焼夷弾攻撃となり、横浜はわずか1時間余りで鶴見・神奈川・西・中・南・保土ケ谷区が壊滅、市域の34%が焦土と化し、人口の3分の1の31万人が被災、推定8,000~10,000人が命を落とされました。
八月十五日、敵機一機が撃墜を受け、飛行士は芹ケ谷町地区内へ落下傘で降下、機体は大破損して、現、南高校の東南山間に墜落した。
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その前八月十二日には、敵の艦載機が来襲、折しも小学校前道路の葬列行進中を、機銃掃射らしきを受けたが、突差に全員付近の民家の軒下や影に陰れ、死傷者は一人もなかった。その前八月六日広島市、八月九日長崎市に夫々爆弾が投下され、遂に実に、昭和二十年八月十五日正午、ポツダム宣言受諾、無条件降伏となったのである。 ︵﹃太平洋戦争空襲-終戦の日﹄引用ここまで︶
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