« まち懇・学校給食試食会 |
最新記事
| 蕗味噌粥 »
2015年2月14日
最近、﹁終活﹂という言葉をよく耳にするようになりました。
終活︵しゅうかつ︶とは﹁人生の終わりのための活動﹂の略であり、人間が人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを総括したことを意味する言葉。
主な事柄としては生前のうちに自身のための葬儀や墓などの準備や、残された者が自身の財産の相続を円滑に進められるための計画を立てておくことが挙げられる。
︵ウィキペディア﹁終活﹂項︶
けれども、終活とは、決して最近になって始まったものではないのです。
例えば、2月15日はお釈迦さま入滅の日とされ、三仏忌の一つ、涅槃会が行われます。
涅槃会では、お釈迦様の入滅の様子を描いた﹁涅槃図﹂を掲げたりしますので、眼にする機会もあろうかと思います。
仏涅槃図︵部分、高野山金剛峯寺所蔵、平安後期︶
いよいよお釈迦さま入滅の日、周りには弟子や信者、動物たちが集まっています。
そこで、お釈迦さまは最後の教えを説かれます。
そのお釈迦様入滅の最後の説法が﹃仏垂般涅槃略説教誡教﹄︵遺教経︶として纏められています。
その前半には、まさに仏となるべき衆生は、﹁八大人覚﹂を修行し、無上菩提を得て、それを他の衆生のために説くべきであると示されました。
残された弟子、信者たちが、今後このように生きて行きなさいという、指針を示されたのです。
八大人覚は次のようなものです。
︵1︶少欲
多欲と少欲とを対比して、﹁多欲の人は利益を求むることに集中するから苦悩が多い。少欲の人は無求無欲であるから心に憂いがない・・・・・﹂と説かれています。
そして、﹁心が坦然として、心配事や畏︵おそ︶れるれることがないから、さまざまな功徳を生ずる・・・と続いています。
人間は贅沢な生き物です。欲望には際限がありません。欲しいものが手に入っても、また次のものが欲しくなります。美味しいものを食べても、もっと美味しいものを食べたくなります。
会社や商売において、利益追求が第一だ、という人もいますが、本当にそうでしょうか。
少欲が実践されますと、お互いの信頼関係が高まり、あたたかい敬愛の情が生じていきます。その功徳は計りしれないものであると考えます。
︵2︶知足
これは、まさに少欲と密接な関係があります。足ることを知る者には、自らを律する強い意志が現れています。
﹁不知足の者は富めりといえどもしかも貧し、知足の者は貧しといえどもしかも富めり﹂
﹁知足の法はこれ富楽安穏の処なり﹂
足ることを知るということは、欲望という煩悩から解き放たれて、実に安らかで穏やかな、そして豊かな心持ちでいることができるのです。
︵3︶遠離
今の時代は、情報の洪水に巻き込まれ、毎日が慌しく過ぎていきます。取り巻く環境も目まぐるしく変動していきます。
このような中で過ごしていると、視覚や聴覚などの五感でさえも麻痺してしまう。このような時代だからこそ、静かなところに坐して、喧騒から離れることが必要なのでしょう。
﹁衆をねがう者は、すなわち衆悩を受く。例えば大樹の衆鳥これに集まれば則ち枯折の憂いあるがごとし。世間は縛若して衆苦に没す。例えば老象の泥に溺︵おぼ︶れて自ら出ずること能︵あた︶わざるがごとし。﹂
・・・先日、良寛さんの戒語を紹介しましたが、その中に﹁推し量りのことを真実になして言う﹂というのがありました。世の中には不確かな情報が溢れています。一人一人の憶測が世の中の喧騒を作り出しているのです。この喧騒に溺れることがないように心がけたいものです。
︵4︶精進
一滴一滴の雨だれであっても、年月を重ねて石に穴を穿っていきます。
これは、実に大事な生活の態度です。
道のりが果てしなく遠いように見えても、一歩一歩足を進めることにより、確実に目標に近づいていくのです。
︵5︶不妄念
﹁常にまさに念を摂︵おさ︶めて心︵むね︶におくべし、もし念を失するものは、諸︵もろもろ︶の功徳を失す﹂というように、真実を見極め、光明を見失わない者には、例え五欲︵財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲︶の雲が襲ってきても、毅然としてこれに左右されないのです。
︵6︶定
これは正定とか禅定、または止観三昧などと同義です。特に禅宗の根底に培われる教えであって、﹁定を得る者は、心即ち散ぜず﹂ということは、心の奥から叡知の光がさんさんと輝いているようなイメージです。
身や心を清浄にして、呼吸を整え、静処に端坐し、我執我慾の念制すること、これが定です。
︵7︶智慧
知恵ではなく、智慧です。これは聞思修の慧ということで、正しい仏法を聞いて、これを思惟し、これを体得した智慧の意で、﹁無明黒暗の大明灯なり、一切病者の良薬なり、煩悩の樹を伐る利斧︵りふ︶なり﹂と例えられています。
分かりやすく言うと、證︵さとり︶とも言うべきものでしょう。
︵8︶不戯論
﹁乱心、戯論を捨離すべし﹂というように、無意味な論議に大切な時間を空費してはならないということです。
このような指針を明確に示したということは、﹁終活﹂で言うところの﹁残された者が自身︵お釈迦さま︶の財産︵尊い教え︶の相続を円滑に進められるための計画を立てる﹂という一つの事例といえると思います。
事実、お釈迦さまの教えは弟子たち、信者たちに守られ、受け継がれて現在まで伝わっています。
自らの死期を悟り、その際に行なうべきことをきちんと行なわれたお釈迦さまの教えは現代に通じるものがあるのです。
涅槃の日を迎えるにあたって、改めてお釈迦さまのご遺徳に想いを馳せるのもよいでしょう。
遺教経は次のように結ばれます。
爾の時、阿珸樓駄、衆の心を観察して佛に曰して言く。但だ是の念を作す。世尊の滅度、一に何ぞ疾かなる哉と。
汝等比丘、憂悩を懐くこと勿れ。若し我、世に一劫住すとも、会うものは亦た当に滅すべし。会って而も離れざること、終に得べからず。自利利人の法、皆具足す。若し我久住すとも更に所益無けん。応に度すべき者は、若しは天上、人間皆悉く已に度す。其の未だ度せざる者には皆、亦た已に得度の因縁を作す。自今巳後、我が諸の弟子、展転して之を行ぜば、則ち是れ如来の法身常に在して而も不滅なり。是の故に当に知るべし。世、皆無常にして会えば必ず離有ることを。憂を懐くこと勿れ。世相是の如し。当に勤めて精進して早く解脱を求め、智慧の明かりを以て諸の癡闇を滅すべし。
汝等比丘、常に当に一心に出道を勤求すべし。一切世間の動不動の法、皆な是れ敗壊不安の相なり。汝等且く止みね。復た語を得ること勿れ。時、将に過ぎなんと欲す。我、滅度せんと欲す。是れ我が最後の教議する所なり。