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2014年3月19日
貞昌院の北側、永野小学校の周辺には﹁伊予殿根︵いよどね︶﹂という字名が残されています。
また、永谷側を少し下った﹁神明社﹂と﹁般若寺﹂の間には﹁殿屋敷城砦﹂がありました。
このあたりを概観してみます。
まずは、港南区の民話をご紹介します。
永谷に住んだ宅間の殿様 - 上永谷
鎌倉幕府がほろびて,京都に室町幕府が新しくできましたが,鎌倉には鎌倉府という,東国十か国を支配するための役所が置かれました。
そして,そこの最高責任者を鎌倉公方といい,将軍である足利氏の血筋にあたる人が代々その地位につきました。
しかし,実際には,鎌倉公方の重臣である上杉氏が,関東管領という職について東国を支配する実権を握っていました(1)。
室町時代も進むにしたがって,この上杉氏も四つの家に分かれて,互いに権力争いをするようになりました。
その四つとは,それぞれ鎌倉にあった自分の根拠地の名前を取って,山内,犬懸,扇谷,宅間(2)のそれぞれ異なる上杉氏をいいます。
この中で,宅間上杉氏はいつのころからか,永谷に根拠地をおくようになったらしく,江戸時代の末に書かれた書物には,宅間氏の子孫である上杉乗国が,永谷の地にお城を築いたと記されています。
宅間上杉氏の築いた城が,どこであったかは,正確には分かりません。
しかし,永野小学絞のあたりに伊予殿根(3)という地名が残っているのは,乗国の子の憲方という人が,伊予とよばれていたので,伊予の殿様の屋敷(4)が館のあった所という意味ではないかと言われています。
また,永谷天満宮や貞昌院という寺のあたりには,環濠の跡があリ,その背後の小高い丘陵には,城跡特有の人工的に削って平らにしたと思われる土地もありました。
そのため,この付近一帯は,宅間上杉氏に関わる武将が築いた城跡ではないかと考えられています。
その後,戦国時代には宅間上林氏は,小田原北条氏に仕えるようになりましたが,もともとは格式の高い家柄なので,後北条氏はふつうの家臣とは別あつかいで,宅間殿と尊称をつけて呼んでいました。
小田原北条氏が没落した後は,宅間上杉規富は徳川家康の旗本として関ケ原の戦いに出陣した後,保土ケ谷に移るようになりました。
現在は,平和な上永谷のあたりも,むかしは武者がたむろして,大声でどなる声が響きわたる物騒な里であったのかもしれません。
︵ふるさと港南・港南区の民話より引用、下線部はkamenoが付記︶
(3)に出てくる﹁伊予殿根﹂が、冒頭の﹃昭和初期・上永谷部落﹄図に記載されています。図では﹁伊予﹂が﹁伊与﹂となっておりますが、﹁伊予﹂の方が正しいと思われます。
(1)鎌倉幕府が滅亡し、室町幕府が京都に生まれると、鎌倉には鎌倉府が置かれました。東国十か国を支配するための役所です。
鎌倉府の最高責任者は﹁鎌倉公方﹂と呼ばれ、将軍・足利家の血を引く者がその地位につきました。
ただし、実質的な政務は、鎌倉公方の重臣であった上杉氏が関東管領職として就き、東国支配の実権を握っておりました。
(2)室町時代中期には、上杉氏は山内・犬懸・扇谷・宅間の四家に分かれ、権力争いをするようになりました。
このうちの﹁宅間上杉氏﹂が、永谷の地に本拠地を構えたと考えられます。
永谷の地に城︵屋敷︶を築いたのが﹁宅間上杉乗国﹂でありました︵上系図 赤字□囲み︶。
永谷上村︵奈我也加美牟良︶江戸より行程十里、永谷郷に属す、小田原北条氏割拠の頃は宅間伊織綱頼知行す︵役帳曰﹁宅間殿二百五十貫文、東郡永谷普請役は有之出銭其外御用時は以御直書可被仰出﹂又村内天神社縁起に天文十二年領主宅間伊織藤原綱頼社頭を再建せし事見ゆ︶蜷川相模守親文が采地なり︵昔は松平大和守、山田立長、鈴木隼人、蜂屋七兵衛等知行せしが文化八年松平肥後守容衆領分となり、文政四年今の地頭に賜ふ︶民戸五十、天正十四年十二月藍瓶の税務を諸村に課せし文書に永谷の名見えたり︵足柄下郡板橋村京紺屋藤兵衛蔵文書曰﹁前岡永谷右之在所不入与申紺屋不出候由、曲事に堅申付可取、若猶兎角申不出侯はば可申上他郷へ越し侯共、其在所迄ただし、役口可取者也仍如件、丙戌十二月廿五日、京紺屋津田、虎朱印、江雲奉之﹂とあり︶同十九年彦坂小刑部元正検地の後、今に至りて其の法に随ふ、旧は当村上中下三分の別称ありしなるべし中古中分の地を分ちて別村を建つ是今の中村なり、今当村内を区別して、上分下分の別称あるは共遺れるなりされば中村の地当村と一区たりし故地形大牙して広袤四隣共に弁別しがたし故に爰に括載す
広二十町袤三十町︵南上下野庭小菅谷三村、西舞岡上下柏尾三村、北平戸村及び武州久良岐郡引越別所二村、東同郡望松本久保別所三村︶飛地四町四畝平戸村小名伊予殿根︵昔天神神職、伊予と云ふもの居住せし跡なれば此称ありと云ふ︶有花寺︵宇計慈地蔵院の所在なり︶半在家、丸山、中里、天神前、木曽、水田、鍋谷、宮田、山谷、馬洗川南北に貫けり︵幅三間元禄国図にも馬洗川と載す、鎌倉古路係りし頃此流にて馬を洗ひしより此名ありと伝ふ︶橋を架す︵長三間半︶有花寺橋といふ
﹃新編相模国風土記稿﹄より
乗国は、永谷天満宮の造営を行いました。
﹃新編相模国風土記稿﹄に拠れば、菅原道真道真左遷に伴い播磨国へ流刑となった際に、道真公自身を彫った木造を道真五男の菅秀才こと淳茂に与え、淳茂はのちに関東へ下向し、相模国鎌倉郡永谷郷に居館を構えて道真像を奉祀したと伝えられています。
この伝承を﹁宅間上杉乗国﹂は、永谷の地に居を構えた際に強く心に刻んでいたのでしょう。
ある日、道真像が乗国に霊夢となって現れ、これを契機にとして社殿を造営し道真像を神体として安置したのが永谷天満宮の始まりとされます。明応2︵1493︶年2月のことでした。
菅原道真、宝鏡に向ひ躬づから模刻して令子敦茂に興へられし真像なりとぞ、後菅原文時藤原道長上杉金吾等相伝せしを明応二年二月当所の領主藤原乗国︵当国八郷を領し永谷郷に居城せしと云ふ︶霊夢の告により此地に始て宮社を営み安置すと云ふ、其後天文十二年領主宅間伊織綱頼修造を加へ天正十年同氏規富再造せしとなり。末社妙義白山。妙見。稲荷。
﹃新編相模風土記稿﹄より
永谷天滿宮を造営した乗国は、当時、永谷八郷︵永谷・平戸・信濃・山田・秋葉・名瀬・柏尾・舞岡︶を領しておりました。
乗国は永元︵1521︶年に没し、その子、憲方︵乗方︶が永谷郷・山田に﹁徳翁寺﹂を創建しました。
︵後山田村︶徳翁寺
乗國山と號す、曹洞宗能州普蔵院末、本尊は弥陀、開山は宗悟、享禄三年十一月廿日寂。開基は上杉刑部大輔乗國、大永元年七月十日卒す、法名養光院徳翁見公、按ずるに寛永宅間譜に、三十郎憲方、法名胤公、道號貴山、院號勝楽と云ふ、相州山之内庄に於て乗國山徳翁寺を建立すと見え又系図纂上杉系には、刑部大輔乗國の名を挙す。
宅間左衛門佐憲清が五代の孫に、乗忠と云ふものあり、通稱を脱し只養洪院と號すと記し、其子に三十郎乗方を係け徳翁寺建立と記せり。
是に豫て推考するに、寺傳に云乗忠と、院號の文字異なれど其唱へ同きに豫れば、もと乗國乗忠同人にして、其子乗方亡父の為に當寺を創建し、やがて其父を開基に准せしものならん。
寺傳の異なるは、全く訛舛あるなるべし、と傳ふ。白山社。
﹃新編相模国風土記稿﹄より
乗国の子、憲方については、高野山桜地院﹃鎌倉御所方過去帳﹄に享禄3(1530)年没と記されています。
憲方は後北条氏に属し、引き続き永谷郷を任され玉縄城主北条氏時為昌に従事しましたが、後北条氏として別格に扱われ﹁宅間殿﹂と称されておりました(4)。
憲方の子房成および孫の富朝は、下総国国府台合戦に出陣、そこで討死します。
宅間上杉規富は貞昌院の開基であります。
天正10(1582)年、貞昌院の本寺、徳翁寺より徳翁寺第4世住職・明堂文龍大和尚を貞昌院初代住職として請し、貞昌院が開かれました。
︵天神社︶別当貞昌院、天神山と号す、曹洞宗︵後山田村徳翁寺未︶。旧は上之坊下之坊と号せし台家の供僧二宇在りしが共に廃亡せしを天正十年に至り、其廃跡を開き、当院を起立す、開祖は文龍︵天正十九年四月十六日寂す︶と云ふ、本尊は十一面観音︵長八寸行基作︶。
神明宮二、羽黒社、浅間社、以上貞昌院持
﹃新編相模風土記稿﹄より
天正16(1588)年、北条氏直は、富朝の子、宅間規富の知行地不入を安堵します。
天正18(1590)年、豊臣秀吉により小田原北条氏が滅ぼされた後、宅間上杉規富は徳川家康に仕え、徳川旗本として関ケ原の戦いにも出陣しました。
その後、宅間上杉家の子孫は旗本家として存続していきます。
以上、永谷に伝わる歴史の一端を概観してみました。