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2010年10月24日
チリのサンホセ鉱山起きた落盤事故で、閉じこめられていた作業員33人が10月13日、全員救出されました。
最後に救出されたリーダー、ルイス・ウルスアさんの下、絶望的な状況の中で全員が一丸となって団結したことができたことが救出の成功に繋がりました。
地上に帰るんだという作業員たちの強い意志、作業員を思いやる家族の支え。この2つのどちらが欠けても救出は成功しなかったことでしょう。
後の報道で、作業員たちは初めは一致団結していた。けれども物資が少しづつ届き始めるようになってから諍いが生じるようになった。豊かさが争いを引き起こした…という証言は、私たちに深い示唆を与えてくれます。
何はともあれ、救出された皆様に対して心より祝福したいと思います。
今回のように深い位置で落盤事故が発生したにもかかわらず全員無事で救出されたことは、稀なことです。
サンホセ鉱山の事故以降も世界各地で鉱山の事故が相次いで報道されています。
鉱山には落盤事故がつきもので、危険と常に隣り合わせですから、事業者には安全には細心の留意を払っていただきたいものです。
稼動している鉱山はもとより、厄介なことは、既に廃業となり放置されている採掘跡がいたるところに存在していることです。
経年変化により廃坑内岩盤の劣化の進展に伴う空洞の崩壊により、突然陥没が起こったり、地表沈下が発生しています。
つい最近では岐阜県・御嵩町に残された亜炭坑の廃坑で、大規模な陥没が発生しました。
この地区は戦中戦後にかけて掘られた亜炭坑の採掘跡が町の中心部の地下に、かつての亜炭坑が網の目のように残されています。
亜炭採掘のピークであった1957年には、御嵩町では炭坑数124、年間43万トンを生産していたとされています。
その上に現在の町が形成されているのです。
しかし、埋戻しなどの陥没予防対策が資金の関係でほとんど進んでいないために、このような陥没事故が繰り返されています。今後、東海地震のような大地震が起きれば、大規模陥没が発生することも心配されます。
このように、頻繁に陥没事故が起こっている地域ばかりが危険であるとは限りません。
亜炭は、日本においては石油が主力となる以前は燃料として利用されていました。そのため、明治中頃から大正・昭和30年頃まで東海地方を中心に、全国各地で貴重なエネルギー資源として盛んに採掘されていました。
その後、エネルギー源の主役が石炭から石油へ転換したために亜炭鉱山は姿を消し、その存在すら忘れられた地区も数多くあります。 災害は忘れたころにやってきます。今後、思いもよらなかった場所で突然陥没が発生することもあるでしょう。
以前、このブログでご紹介したとおり、港南区にも規模は小さいものの数箇所の亜炭鉱山がありました。
⇒港南区の炭鉱と戦争の影
当時使われていたトロッコは木枠の箱で車輪は鉄でした。大体全国このような形で掘られていたのではないかと思います。
写真は昭和17年に撮影された横浜鉱山坑道の入口︵港南区最戸町大久保新地︶です。
大正10(1921)年測量、大正14年発行による地形図にも﹁あたん﹂の文字が見られます。
港南区では昭和30~40年台にかけて一気に人口が増加しました。
戦後まもなくの頃から比べると10倍の人口増です。
かつて鉱山がそこにあったことを知らずに鉱山跡地に出来た住宅地に居住されている方も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。
自分の住んでいる場所が、昔はどのようなところであったのかを知ることは、自分の身を守るということにも繋がります。
今後は廃坑の経年劣化により陥没事故が増えていく可能性があります。
御嵩町で起こったような陥没の被害については、岐阜県の場合は鉱害復旧費の基金はあくまでも事後対策費用であって、陥没を予防するための調査や対策には使用できないことになっているそうです。
亜炭炭鉱に限らず、﹁負の遺産﹂として残されているあらゆる廃坑の空洞が、どの程度陥没の危険度があるのかを評価し公表することが求められます。
少なくともどこに坑道が通っているのかという調査を進め、危険度を把握し、危険箇所の空洞を充填するなどの予防的措置を進める必要性があると思います。
■関連リンク
気ままに鉱山・炭鉱めぐり
社会環境工学をめざす早稲田大学理工学部土木工学科濱田研究室