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2009年10月19日
大本山總持寺では、毎月25日に常照殿において無際大師月忌︵がっき︶法要が営まれます。
無際大師とは、中国禅宗第8祖・石頭希遷禅師のことです。
﹃参同契﹄の経典を撰せられたといえば禅宗の系譜の上で重要な禅師であったかが判ると思います。
こちらも併せてご参照くださればと存じます。
大本山總持寺に祀られるミイラ仏
無際大師月忌は冒頭に述べたように毎月25日︵12月が御正当︶となります。
その差定︵式次第︶は次の通りです。
︻常照殿に於いて無際大師月忌 差定︼
・前後三拝
・参同契
・回向︵上慈恩︶
︵正当十二月は九拝差定・逮夜有︶
ところが、今月行なわれていた御両尊御征忌会の差定のとおり、10月は14日に石頭希遷禅師月忌が営まれています。
總持寺御征忌会第3日
第3日︵10月14日︶
朝課罷
石頭希遷禅師月忌︵於・放光堂︶
差定
・置茶湯
・前後三拝
・参同契
・回向
・法要罷 石頭希遷禅師真前にて焼香
ここで、何故14日に石頭希遷禅師月忌が営まれているかを考察するために差定の変遷を辿っていくと、どうやら總持寺に石頭希遷禅師のミイラ仏が安置されるようになってから、御両尊御征忌会随喜衆により﹁御真前﹂への拝登を、という要望もしくは法要都管寮の配慮があって差定として定着することとなったようです。
当時は、石頭希遷禅師が總持寺に安置されるということは大ニュースとなったのでしょう。
きっと御征忌中の石頭希遷禅師月忌は多くの随喜衆で放光堂︵当時の法堂︶が溢れかえっていたのではないかと思います。
現在では大祖堂での課罷法要と同時進行で内勤として営まれておりますので、法要には都管寮、両班寮、堂行寮の随喜のみとなっています。
なお、石頭希遷禅師のミイラ仏が日本に来た経緯については、複雑な経緯があり、中国版ウィキペディア︵维基百科︶には次のように記載されています。
石头希迁 ︵重定向自石頭希遷︶
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石头希迁︵700年-790年︶,禅宗大师。先於曹溪六祖門下出家為沙彌,惠能去世時,年僅十四歲,後依於六祖門下青原行思而開悟。曾在南岳一块巨石上结庐而居,称"石头和尚",他這一系禪法,也因此被稱為石頭宗。提出"触目是道"的禅宗修行方法,有﹁石頭路滑﹂之稱。希迁的再传弟子创禅宗曹洞宗、法眼宗、云门宗。
石头希迁在南嶽衡山南寺坐化。太平洋戰爭期間,日本人把石頭和尚真身搬到日本,至今仍供奉在日本總持寺。初期總持寺把石头希迁的真身開放給遊人參觀,後來已經收藏起來,謝絕參觀。
石头希迁著有︽參同契︾、︽草庵歌︾。
来自 维基百科,自由的百科全书
下線はkamenoが付記しました。
当該下線部の記述は﹁在2008年11月27日 (四) 12:31所做的修订版本﹂とありますから最近書き加えられた記述ですね。
中国としては本音として返して欲しいのでしょう。
しかし、この記述は正しくなく、
﹁辛亥革命(1911)の時にミイラ仏を祀った寺が革命軍により焼かれたが、石頭希遷大和尚の研究家・山崎彪氏が火の中からミイラ仏を救い出し、三井物産の船で日本に運んだ。﹂
ということが史実です。
日本人山崎彪氏がいなければ、ミイラ仏は灰燼に帰していたことでしょう。
︻追記︼
维基百科 石头希迁 項下線部を修正してみました。
石头希迁在南嶽衡山南寺坐化。辛亥革命期間,革命军放火寺院烧了。日本人在火灾中搭救石頭和尚真身,搬到日本,至今仍供奉在日本總持寺。
中国語が堪能な方、さらに適切な表現がありましたらお願いいたします。
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