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2009年3月10日
今日は穏やかな一日となっています。
けれども64年前の3月9日夜から10日にかけての東京は、現在の平和な世の中からは想像も絶するほどの惨状に見舞われました。
東京大空襲がアメリカ軍により行われたのです。
それ以前にももちろん空襲は各地に行われていました。けれども、この日ほど大規模でかつ市民を攻撃対象に行なわれた無差別の低高度夜間爆撃はありませんでした。
3月10日の大空襲は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているとして、町工場が立ち並ぶ下町の市街地とそこに生活する市民そのものを攻撃対象に行なわれた低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団が投入された。
1945年3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来。22時30分︵日本時間︶、ラジオにて放送中の軍歌を中断して警戒警報が発令された。同編隊は房総半島沖に退去して行ったため、警戒警報は解除される。ここで軍民双方に大きな油断が生じた。その隙を突いて、9日から10日に日付が変わった直後(午前0時7分)に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機︵うち爆弾投下機279機︶による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも爆撃が開始された。午前0時20分には浅草地区や芝地区︵現・港区︶でも爆撃が開始されている。これにより、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断ち、逃げ惑う市民には超低空のB-29から大量の榴弾や機銃掃射が浴びせられた。火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速25m以上、台風並みの暴風が吹き荒れた。
火災から逃れるために、隅田川に架かる多くの橋や燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が常識を遥かに超える規模であるため、超巨大な火災旋風が至る所で発生し、橋や建物に炎が火龍の如く流れ込み、焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息︵ちっそく︶死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も多く、翌朝の隅田川は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。
水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ追い詰められた犠牲者が多いのに対し、逆に内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した生存者が多い。
死亡‥8万3793人
負傷者‥4万918人
被災者‥100万8005人
被災家屋‥26万8358戸
東京大空襲
出典: フリー百科事典﹃ウィキペディア︵Wikipedia︶﹄
昨日︵3月9日︶門前仲町のホールにて、東京大空襲から64年﹁鎮魂と平和を願うコンサート﹂が開催されましたので参加してきました。
ご案内いただいたハープ奏者・八木健一さんとシンセサイザー奏者・八木ゆみ子さんご夫妻とは、仏教情報センターや、ゆめ観音アジアフェスティバルなどの繋がりです。
⇒観音様胎内での演奏会
八木健一さんのお父さんは、20歳の時に、母と3人の弟とともに東京深川で暮らしておりましたが、昭和20年3月10日、大空襲に遭い家族を失ってしまいます。
健一さんがお父さんにそのときのことを訊ねても黙り込んで何も話してはくれませんでした。
あまりにも悲しい記憶は、無意識にそれを消し去りたいという思いからでしょうか。結局最後まで誰にも語ることは無かったそうです。
この日のコンサートは、前半は、東京大空襲を体験された橋本代志子さんの語りを中心に大空襲の状況を曲で表現、後半はテノール歌手嘉納兼徳さんの歌を中心に鎮魂、慰霊から未来への希望という構成で進んでいきました。
3月9日深夜、当時24歳、亀沢町に住んでいた橋本さんは、空襲が始まると幼い子ども、両親、そして三人の妹とともにまずは家の前の防空壕に避難。
﹁みんな、逃げるんだ。ここはもういかん﹂
という父親の声に、防空壕から外に出ると頭上には電柱を掠めるほど低空を編隊を為して飛行するB29が乱舞し大火災が迫ってきてきました。
家族7人は南下して竪川を目指し歩いていましたが、パニック状態の人の流れの中に妹たちが次々とはぐれいき、次第に小さくなっていく﹁お姉ちゃん、お姉ちゃん﹂という声が最後の声となってしまいました・・・
橋本さんの語りは、実に迫力があります。
電信柱を掠めるほど低空を編隊を為して飛行するB29、逃げ場を失って大通りに溢れる市民、黒焦げの死体の山。
目の前に光景が浮かぶようです。
﹁橋本さん、あのつらい体験をよく話しているわね﹂って言われる。でも、あの夜、沢山亡くなった人の代わりに、それこそ命のある限り、私はずっと話し続けていこうかと決心しているんです。
橋本さんの語りの記録がこちらに掲載されています。
⇒東京大空襲を語る︵3︶橋本代志子さんの話︵JanJan News)
第二部で登場された沖縄出身のテノール歌手嘉納兼徳さんもお父さんが海軍に所属しており、沖縄戦に出撃されました。
戦争中も平和な今も変わらないのは沖縄の青い海、そして兀兀とどっしりとした山々。
そして太陽や月や大地を吹き抜ける風、青い空。
海の青さに 空の青
南の風に 緑葉の
芭蕉は情けに 手を招く
常夏の国 我した島沖縄︵うちなー)
﹁芭蕉布﹂
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ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない 悲しみが
ざわわ ざわわ ざわわ 波のように 押し寄せる
風よ 悲しみの歌を 海に返してほしい
夏の ひざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは 消えない
﹁さとうきび畑﹂
︵コンサートのプログラムより。歌詞一部引用︶
客席の最前列には、犠牲となった家族の遺影が飾られ、体験を語る橋本さんの机の上にはプレゼントされた沈丁花の花が置かれていました。
﹁昔、丁字油という髪油があった。母はよく髪をとかすときにそれをつけていた。その香りが沈丁花の匂いに似ているのだ。だからあの匂いを嗅ぐと母を思い出す。好きな匂いだ。江東区の庁舎の前に母子像が建っている。︵私たちの請願から︶10年間かかってやっとそれが建ったときも、沈丁花を捧げてお礼を言った。なにかのときにはこの花を飾る。まだ生活が苦しくて、仏様に供える花が買えなかった頃には、庭に咲いているその花を供えたりもした﹂
母の髪の丁字油の香を思はする 沈丁花咲く三月十日
このようなコンサートを企画されました八木さんご夫妻、そして東京大空襲戦災資料センターの方々に心から敬意を表し、犠牲となられた多くの方々に心から哀悼の意を捧げます。
■追記
上記記事は3月9日の演奏会の記事です。
今日︵10日︶には八木さんのお父さんの母校、区立東陽小学校での演奏会がありました。
朝日新聞2009/3/10 夕刊
■関連リンク
東京大空襲・戦災資料センター