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2009年2月22日
港南区は、そのほとんどが住宅地で埋め尽くされてしまっています。
地形からこのエリアを概観すると、大岡川水系・柏尾川水系と、それを分ける分水嶺が特徴です。
この分水嶺が前日の記事で詳述した武相国境です。
江戸時代の村落について判りやすいように﹃新編武蔵風土記稿﹄(文政2年・1828年成立︶、﹃新編相模国風土記稿﹄︵天保12年・1842年成立︶を元に、地形図に落として作図してみました。
<江戸時代の港南区エリア>
それによると、現在の港南区エリアには、武蔵国側︵国境東側大岡川水系︶に宮ヶ谷村・金井村・宮下村・吉原村・上大岡村・雑色村・松本村・関村・最戸村・久保村があり、相模国側︵国境西側・柏尾川水系︶に上野庭村・下野庭村・永谷上村・永谷中村がありました。
(後に宮ヶ谷村・金井村・宮下村・吉原村は日野村に、雑色村・松本村・関村は笹下村に、永谷上村、永谷中村、永谷下村は永谷村として合併︶
︵さらに﹁明治の大合併﹂で、久良岐郡大岡川村と日下村、鎌倉郡永野村が成立︶
地形図をみてのとおり、耕作や居住に適した低地は川沿いの一部地域であり、いわゆる谷戸と呼ばれる地域でした。
丘陵は、標高こそあまり高くないですが、傾斜が比較的急峻であり、山あり谷ありの複雑で不便な場所であったといえます。
そのため、各村の人口は少なく最大でも60戸ほどの戸数でで三村を形成していたようです。
それゆえ、世間の喧騒からは離れ経済的には豊かではなけれども平穏な毎日を送っていたと考えられます。
武蔵側、相模側の交通が不便であったがゆえに、同じ港南区であっても異なった文化が育まれています。
武相国境の国境線がもたらした影響は、例えば各村の横浜市への編入の時期を見ると、その一部を垣間見ることが出来ます。
鎌倉郡永野村の昭和に入って間もなくの時期の課題として、﹁学校の改築﹂﹁伝染病舎の結末﹂﹁県道の改修﹂がありました。
このうち、﹁伝染病舎﹂については、関東大震災前までは︵現在の戸塚区︶川上村と共同で隔離病舎を造っていましたが、大正12年の関東大震災で倒壊してしまったため大岡川村の村医朝倉氏と共同で行うこととなり、豊田・川上・永野三ケ村の組合解散の決議をし、大正14年に永野村は武蔵国側の久良岐郡大岡川村、日下村と組合となります。
【豆知識】 永野村の領域は、普通に考えると豊田・川上村とともに後に戸塚区に編入されたはずでしたが、わざわざ分水嶺・武相国境を越えた村とともに港南区となっている理由はここに発端があったのです。 |
<昭和2年4月1日に拡充された横浜市域>
ところが、昭和2年に横浜市の市域拡充に伴い隣接町村を合併する際に、永野村を除いた大岡川村、日下村が横浜市になり、武相国境西側の永野村だけが鎌倉郡のまま取り残されてしまいました。
なぜ十年近くも遅れをとったのでしょうか。
当時、武蔵側と相模側を結ぶ道路は、いわゆる尾根道の古道だけでありました。
自動車が永野村に初めて入ることができたのは、実に昭和4年に平戸と吉原を結ぶ道路の完成を待つこととなります。
それまでは、横浜の隣りでありながら道路整備が不完全で、いわゆる陸の孤島のような状態であったわけです。
横浜市への出入が遠い町村にすら及ばず、自ら別天地のごとき生活状態でありました。
生活習慣も総てが鎖国的であったという中、国境の丘陵を越えるということの障害が、横浜市への編入の遅れの主因となったようです。
昭和4年、平戸と吉原を結ぶ道路が開通することにより、永野村はようやく﹁開国﹂の日の目をみることになりました。
︵この道路は後に現在の環状2号線となります。片側3車線の道路が整備されるとは当時の人々には思いもつかなかったことでしょう︶
この時期の村長さんの言葉をご紹介いたします。
都市に都市にと先を争って走るときに、工業の行詰りは、農業立国に逆転せぬとも限らぬ。土地の開発と言えば曰く住宅地、曰くゴルフ場、曰く遊園地、曰く何々工場、甚だしくは花柳界等の招致がそれである様に思ふものがある。 自分はそんな不健全な発展は望まない方がよいと思う。望まなくても、自然に殖えて寧ろ取捨選択に困るであろうと思ふ。区画整理もせねばならぬ時も来よう。村道として開いた道が自動車道と変る時代も来るであろう。要するに之等は自然の所謂他動的の勢に任せて、今は只農業的に所謂自動的充実に全力を尽す時代であると自分は信ずる。 永野村は他の多くの農村とは趣を異にしている。今は戸数二百の小村であるが、土地が広くて、大都市に隣接して居るから、年々歳々移住者が多くなり、遂には移住勢力に圧倒される時が来る。之れも免れ難い運命であるが、自分で分家を奨励する意味が茲にも着眼しているのである。 永野村の前途には光明が輝いて居るのであるが、之れは過渡期の時代に於ける私達の舵の取り方が甚だ六づかしい。只自分達は何処迄も、永野村を美しい気持ちの良い住み良い働き良い所として行きたいものだ。偏見かも知れぬが、自分は之れを望むのだ。
『村政七年を顧みて』(昭和6年・永野村村長 西木泰一著)
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今から80年も前の言葉です。
今の世の中でも、充分に通用する内容ではありませんか。
その見識の高さには心底驚かされます。
現在これだけの見識をもった政治家がどれだけ存在するのでしょうか。
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仰るとおりですね。それゆえに寺院の果たすべき、果たさなければならない役割も大きいといえそうです。
投稿者 kameno | 2009年2月23日 20:09