« 霜柱と水仙 |
最新記事
| 絵地図と写真にみる貞昌院の変遷 »
2008年1月29日
ここのところ、地元の方と話す機会が多く、その際に会話の中に良く出てくるのが﹁屋号﹂です。
ある方を呼ぶ場合に、古くから姓を用いず、その地域の方だけが分かる符合のようなものを使ってきました。
姓を言われるよりも屋号で呼ばれたほうがピンとくることも多いのです。
日本における屋号
日本における屋号は、江戸時代において士農工商の身分制度により武士以外の者が苗字を名乗ることが認められなかったため、商人や大きな農家が、取引をするための必要性から、あるいは日常生活上の必要性から屋号を使うようになった。
家族制度の屋号
屋号は地域によっては家の姓に代わるものとしても用いられたので︵特に同姓が多い地域で現在でも必要な場合もある︶、一家族、一族の系統を示すものとしても用いられている。この場合の屋号は地方によっては士農工商の身分制度とは関わりなく用いられ、姓を持つ士族の家系にも使われている事も多々ある。これらの制度は商人との取引が多かった地域などに見ることもできる。
古くからの地域や特定の集まりに根付いた家は、集落内における家の特徴︵本家・分家などの家の成り立ち、家が立地している地理的特徴など︶を含んで屋号が名づけられている。また、家長が代々襲名する名乗りを屋号にしていることも多い。この場合、屋号はその地域や特定の集まり以外でほとんど使われることがない。
Wikiペディア
上永谷地区ではどのような屋号が用いられていたのかを絵地図にまとめたものが文献に残されています。
﹃天神さまと上永谷﹄ 発行・永谷天満宮氏子会 ︵平成元年3月17日発行︶ P62 より、 昭和初期上永谷 の絵地図を引用してみます。
地図の上が南方向、下が北方向です。
当時の上永谷の集落と、その屋号が記されていますが、平成になって20年経過した現在でも、その屋号は脈々と受け継がれています。
今でも屋号を用いたほうが、地の人には分かりやすかったりします。
その他、この地図はとても貴重かつ重要な情報がたくさん含まれています。
まず、赤い色で着色してある﹁上の坊﹂﹁下の坊﹂は、貞昌院の前身となった庵のあった位置です。
天神社、村の鎮守なり、神体は︵長一寸八分︶縁起に拠るに延喜二年菅公筑紫に在りて宝鏡に向ひ躬づから模刻して令子敦茂に興へられし真像なりとぞ、後菅原文時藤原道長上杉金吾等相伝せしを明応二年二月当所の領主藤原乗国︵当国八郷を領し永谷郷に居城せしと云ふ︶霊夢の告により此地に始て宮社を営み安置すと云ふ、其後天文十二年領主宅間伊織綱頼修造を加へ天正十年同氏規富再造せしとなり。末社妙義白山。妙見。稲荷。
別当貞昌院、天神山と号す、曹洞宗︵後山田村徳翁寺未︶。旧は上之坊下之坊と号せし台家の供僧二宇在りしが共に廃亡せしを天正十年に至り、其廃跡を開き、当院を起立す、開祖は文龍︵天正十九年四月十六日寂す︶と云ふ、本尊は十一面観音︵長八寸行基作︶。神明宮二、羽黒社、浅間社、以上貞昌院持
﹁注﹂上の坊は上永谷町5358番地附近一帯、現、田辺氏宅東方地域、下之坊は上永谷町3400番地附近一帯、現、鈴木氏宅西方の山腹、故に鈴木家を寺下と呼称す、両坊共に七堂伽藍を具備せしと﹂
﹃新編相模風土記﹄より引用、下線と﹁注﹂はkamenoが付記
貞昌院の北側を東西に流れる川は永谷川。
現在は片側3車線の環状二号線の中央に移設されていますが、環状二号線が出来る前は貞昌院の門前を流れていました。
地図左下の﹁かまくらみち﹂は、鎌倉道下之道で、相武山小学校から永作を通り、馬洗橋で永谷川を渡り、上ノバ・天谷の道を通って上野庭へと通じます。
詳細はこちらの記事を参照下さい ⇒ 鎌倉古道下之道
上記地図の○数字1?10は、当時の永谷十勝。
︵1︶社頭の暁雪
︵2︶菅公筆塚
︵3︶貞昌院の晩鐘
︵4︶丸山の鶯
︵5︶馬洗川の清流
︵6︶島越の夕照
︵7︶十国見の眺望
︵8︶柳橋の秋月
︵9︶中里の流蛍
︵10︶水田の落雁
︵9︶のようにもう見ることのできない光景もありますが、意外と今日にも通じるものがあるということが興味深いです。
いつまでも、地元の風習や情景は大切に受け継いでいきたいものです。