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2007年1月28日
家族に最後の置き土産=﹁生前の付き合い教えて﹂?天文学者、死亡広告に思い (時事通信)
﹁妻と娘に、私との付き合いがどうだったかを書いた手紙を送って﹂?。20日付の一部全国紙に、風変わりな死亡広告が載った。肩書や住所もなく、氏名のみ。知人への感謝や自らの死生観をつづり、家族への﹁置き土産﹂を残した広告の主は、昨年の大みそかの夜、64歳で世を去った一人の天文学者だった。
元国立天文台助教授で、地球に衝突する可能性がある小惑星を監視する﹁日本スペースガード協会﹂理事長を務めた磯部※︵※=王へんに秀︶三さん。以前から肝臓が悪かった磯部さんは、昨年春ごろから体調不良を訴えて11月に検査入院した。しかし、既にがんが進行していた。
妻の良子さんは、磯部さんを﹁やると言い出したらやりすぎるほどの行動派﹂と評する。広告に載せた文面は、約15年前、皆既日食観測のために医者の制止を振り切ってメキシコの5000メートル峰に登る際に自ら書き、﹁万一の時は﹂と良子さんに預けていた。
﹇時事通信社 2007年1月27日5時9分 ]
まず、最初に、磯部琇三氏へ心より哀悼の意を表します。
記事中にある磯部琇三氏の死亡広告は、今月20日の新聞に掲載されております。
広告文を引用させていただきます。
私は1942年7月16日に大阪で誕生以来60有余年の人生を終えることになりました。その間、各年代毎に多くの方々にご支援いただきありがとうございました。私を支持して下さった方はもちろん、敵対された方々の行動も私の人生を飾り付け変化に富んだ楽しいものとして下さいました。
私は元々神の存在を信じておりません。そのような者が死んだ時だけ宗教に色どられた形式的なふるまいをするのは、理にかなっておりません。ひょっとしたら、私が亡くなればこの宇宙全体も無くなるのではと思ったりしております。万一、皆様の存在が残る場合
には、有意義な人生をすごされるよう願っております。私自身の葬式等一切の形式的な事はしないよう、また、遺骨等を残さないように家族の者に遺言してありますのでご理解下さい。
そのような訳でお香典などは固くお断り申し上げます。
もし、私に好意を持っていて下さった方々にお願いできるものでしたら、妻**、娘**に私とのお付き合いがどのようであったかなどを書いた手親を送ってやっていただければ、この上もない幸いです。娘も、父がどのような人問であったか、理解してくれるでしょう。
短くもあり長くもあった私の人生でしたが、ありがとうございました。磯部琇三
磯部氏は、遺言中で﹁私が亡くなればこの宇宙全体も無くなるのではと思ったりしております﹂と記述しています。
これは誰でも一度は頭の中によぎる、﹁他我は存在するのか﹂という疑問です。
かつてデカルトは、自分が人間だと思って動く物体は、本当は人間ではなく、帽子と着物の下には自動機械が隠されているのではないかという懐疑を試みています。
一つだけ明白となったことは、磯部氏の疑問に対して、少なくとも一人の自我は磯部氏の死後も存在が残っているという事です。
けれども、このトピックスでは、敢えて他我が存在するのか否かという論議は行いません。それについては別の機会に考えて行きましょう。
本題に入ります。
通常、死亡広告は、葬儀を執り行う喪主または葬儀委員長により、その人の肩書きや業績、経歴を記載し、葬儀の日程や式場を広告するものです。
しかし、この磯部氏の死亡広告は、その形式から一線を画しています。
葬儀のあり方、意義を考える、一つのきっかけとなりうる死亡広告であると思います。
この死亡記事を整理すると
︵1︶無神論者のため葬儀もお墓も不要
︵2︶遺された家族に私との想い出を伝えて欲しい
このうちの、︵1︶については、葬儀も執り行わず、遺骨もお墓も残さない、その考えは人それぞれですから、もちろんそれを否定することはしませんし、この部分はニュースの核心ではありません。
︵2︶の部分は、無神論をとるものにも、信仰を持つものにも違和感無く受け入れられるものであり、これの部分が冒頭のニュースとして全国に配信されました。
広告に掲載された遺言は、15年前、肝臓を患っている中、皆既日食観測のために医者の制止を振切り、メキシコの5000メートルの山頂に登る際に、奥さんに預けていたものだそうです。
昨年大晦日に肝臓癌により亡くなられた後、その15年前に託された遺言が、遺族により、磯部氏の意思として掲載されたものです。
磯部氏は、遺された家族に多くの想い出を残しました。それは、磯部氏から家族への直接的な想い出であります。
そして、亡くなられた後も、この死亡広告により、遺された家族に、磯部氏を知る多くの方から、家族の知らなかった生き様についての想い出が届けられていく事になるでしょう。
氏の人柄をにじませるメッセージだと思います。
僧侶としての感想を書かせていただくとするならば、一人の人間として、生きているうちにこそ、仏教について親しみを持っていただけるよう、そして、是非曹洞宗の葬儀を執り行って欲しいと心から欲していただけるよう、生とはなにか、死とはなにか、葬祭とはなにか、ということに対して真摯に向きあうことが今まで以上に大切だと実感しています。
葬儀、年回法要には故人ゆかりの人が集まり、故人の想い出話に花を咲かせる。
そういう役割も果たしているわけですから。
人は死して何を遺すのか。
これは生きている間に、じっくりと考えて行きたい命題でもあります。
︻関連リンク︼
﹁現代に問われる葬祭の意義﹂︵曹洞宗総合研究センター・1999年︶
曹洞宗の葬儀について︵貞昌院版︶
年回法要の心得︵貞昌院版︶
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