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2006年12月17日
ネット参拝は是か非か、初詣で前に揺れる神社界
初詣でシーズンを前に、インターネット上で﹁参拝﹂﹁祈願﹂ができたり、お守りやお札を販売したりする試みを巡って、神社界が揺れている。
全国約8万か所の神社を管理・指導する神社本庁︵東京︶は、﹁ネット上に神霊は存在しない﹂と、今年初めて自粛を求める通知を出した。しかし、導入している神社からは﹁神社に親しみを持ってもらえる﹂﹁遠方の人の助けになる﹂との声もあり、本庁では頭を抱えている。
地元で﹁安産の神様﹂として知られる高知県南国市の新宮神社。ホームページで﹁インターネット参拝﹂を選ぶと、﹁ネット記帳﹂の欄が表示される。願い事を書き込み、﹁私のお願いをよろしく﹂というボタンをクリックすると、神社に電子メールが送信され、無料で祈願してもらえる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061216-00000004-yom-soci
インターネット上に発信された情報が信仰の対象となりうるかということについては、論議の分かれるところですが、もしも、信仰の対象になりうるのならどういった方法論があるのかを考えてみます。
ここでの論旨を先に書きます。
﹁方法によってはバーチャル参拝も有り﹂だという論旨で、このトピックスを書いていきます。
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私たち人間は渾沌である自然に意味を持たせることで﹁文化﹂という秩序をもたらしました。
日常は、1日、1週間、1ヶ月、1年という、それぞれが完結性を持たない全体︵一人一人の一生︶の部分です。例えば1日は、朝から始まり晩に完結するように見えますが、1週間の中から見れば1日は部分的であるといえます。
このような日常性が文化の所産であるとするならば、その全体性を明確にするために、意味づけを補強するシステムが必要になる訳です。
これが、﹁儀礼﹂であって、例えば初詣とか成人式や結婚式、葬儀などのイニシエーション︵通過儀礼︶は、一生の中で自分が︵人が︶どの位置にいるかを明確にする充実感をもたらすものとして重要な役割を果たします。
﹃文化記号論﹄1994︵池上嘉彦・山中桂一・唐須教光 講談社学術文庫︶から引用すれば、このような非日常的な儀礼は、本来連続的な時間が、日常生活においてあたかも部分的に区切られているかのように構成されてしまうものを、その部分部分を全体の中で再構成することにより、新たな秩序を生み出し、全体性を回復させる装置として働くものだといえます。
この具体例として、池上は次の3つを挙げています 。
(1)衣装
晴着、喪服、司教や導師の衣装、など、ある意味非実用性と装飾過多の非日常的な衣装が秩序の一時破壊と秩序の鮮明化を行い、それによって既存の秩序を再確認するという役割を果たす。
(2)食生活
おせち料理や感謝祭の食事など、内容的に非日常的なものと、誰と食べるかという非日常性の二つが考えられる。特に後者は、例えば祭りの日に、家族以外の人と食卓を囲むということにより、一種の緊張と反秩序を生み出す。お見合いの席で、互いに異なる集団に属する二家族が新たな集団を形成するのに食事や酒が重要な役割を果たすのも顕著な例といえる。
(3)空間
日本家屋には神棚や仏壇があり、それによる聖なる空間が存在している。そこは、宗教儀礼などの非日常的な行事以外に使用しないのが通例である。そこでは、生活している家族と自らの先祖が一時的に結合する場となり、そこで、綿々として続く家系の中に断片化した自己を見出し、全体性を回復させる場として機能している。そこへは日常的な出入りを制限したり、子供たちがふざけるのを禁止することも多い。
このような﹁非日常空間﹂の装置として、教会や寺院、神社などの宗教施設があります。
通常、宗教施設の建物は、日常的な一般の構造物とは異なった形状をしていて、その空間に入るときには、衣装を定められたり、持込が制限されたり、騒ぎ立てるなどの行為を禁止したりというルールが存在する訳です。
例えば神社には、鳥居という結界があり、そこを通過するときには身を清め、気持ちを正して境内に入らなければならないというルールが求められます。
︻神社境内に入るときは︼
神社にお参りするときは、まず入口の鳥居の処で衣服を整え、
一揖をし、心を引き締めて、境内に入りましょう。
神様の鎮まります神社境内へ、何の御挨拶を申し上げずに、
ズカズカと入ることはまことに失礼なことなのです。
︵神社庁パンフレットより︶
このあたりが、冒頭の神社庁がバーチャル参拝自粛を求める通知をを出す根拠になっているのでしょう。
まず、このような非日常がなぜ必要なのかをもう少し考えてみます。
それは、戦後の日本を見ると明確になります。
戦後まもなく伝統的な慣例が徹底的に排除され、虚礼として廃止されていきました。
しかし、戦後から時を経るにしたがって、伝統的な儀礼や慣習がどんどん復活していったばかりでなく、新しい祭事が作られていきました。
現在でも、さまざまな新しい祭りできているという現象を目の当たりにしたりします。
社会の閉塞性を打破して<ハレ>の日を求めるという気運もあるのでしょう。
しかし、このような伝統行事は、最近、逆に失われ始めているという事実も見過ごすわけには行きません。
都市化の進展や家族制度の崩壊、核家族化、少子化によって伝承がうまく機能しなくなったからです。
このことは、参加者の﹁記号論的な役割分担﹂が明瞭に分かれていないのに、現在の儀礼では、大多数の人が単なる受け手としてしか参加していないという状況も生みだしました。
ハレの意識をもてない人が増加したということは、積極的にそのイベントに参加せず、単なる傍観者、見物人になっているということになります。
その意味で、今は文化のパラダイム変革寸前の危機的状況であるとも言えます。
さて、話を元に戻しましょう。
非日常空間の装置として﹁バーチャル参拝﹂が機能するためには、例えば旧来の日本家屋の仏間に設置されている仏壇の前に形成される﹁聖なる﹂空間のような結界空間をどのように設定できるかに係わると考えられます。
インターネットは、テレビやラジオと異なり、積極的にコンテンツを受け止めていくメディアであるという特色があります。
全体性を明確にするべく、意味づけを補強するシステムは、構築の仕方によっては、インターネットを通じたコンテンツ配信でも充分可能であると考えられます。
﹁仏間で仏壇を開く﹂行為と、﹁パソコンで参拝したいサイトを開き、クリックしながらバーチャル参拝を行う﹂という行為に明確な差異は生じないのかもしれません。
さらに、例えば、その宗教の﹁聖地﹂のライブカメラ生中継のように﹁現実の﹂宗教施設が実在し、そこに参拝したことがあるという経験の積み重ねの内在化によって形成される感覚様式が形成されるという構図が明確に構築されれば、バーチャル参拝は確実に成立するといえます。
田村貴紀は、﹃天理教のインターネット利用に関する試論﹄の中で、天理教サイト利用者にアンケート調査を行い、神殿の中継画像に対して﹁懐かしい﹂﹁ほっとする﹂﹁現場の様子が見られてうれしい﹂﹁またおぢばへ行こうと思う﹂などの設問に対して60%以上の肯定的な回答を得ています 。
このように、バーチャル参拝についても、メディアを通して﹁本物の﹂境内が見られるということが参拝行動につながる事例も見られるのです。
バーチャル参拝の経験が積み重ねられて内在化することによって、その感覚が新たなものへ変化し、新たな感覚様式の枠組みが形成された事例の一つと考えられます。
その意味で、インターネット上で、宗教のサイトを訪問した際に、実際にその宗教施設の中にいるかのような体験をさせることは、比較的容易に実現可能だといえます。
ただし、だからこそ、注意しなければならないのは、メディアそのものが﹁信仰の対象﹂になってはならないということです。
偶像崇拝に陥った場合の危険性については過去に何度も論議されているところですから、ここでは言及はしません。
大前提として大切な事は、あくまでも、実際の宗教施設による活動が行われており、その宗教の信者が、宗教活動の一つの手段として利用するということなのです。
最初に論旨を書きましたが、そこでいうところの﹁バーチャル参拝も有り﹂だということは、上記の大前提があってこそ言うことができることです。
天理教の事例も、おぢば帰りとして定期的に実際に﹁聖地に参拝する﹂という体験をかさねているからこそバーチャル参拝が成り立つわけですからね。
ですから、みなさん、三が日などの節目ごとにきちんと参拝をしましょう!
最後に、CMC︵コンピュータを介したコミュニケーション︶を利用した宗教行為︵バーチャル参拝︶というと、奇異なものであるように思えるかもしれませんが、インターネットの中に形成された非日常的な空間も、本来連続的な時間が、日常生活においてあたかも部分的に区切られているかのように構成されてしまうものを、その部分部分を全体の中で再構成することにより、新たな秩序を生み出す機能を有するとすれば、行為遂行的発話によって宗教的意味が形成されるという点で、これまでの宗教儀礼と本質的に変わりはないものであるといるのかもしれません。