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| 言語表現はいかにして多値論理体系で説明できるか5 »
2006年11月 1日
私たちの言語化の基礎にはこのような人類としての種に共通な生理学的なレベルでの認識があルことが分かりました。
生理学的なレベルを基層として、異なったレベルに先の意味論的な認識の層があるのです。
色と対応する表現方法としての語彙を調べ、ざっと並べると、赤系統の色については以下のようになります。
﹁牡丹色・赤紫・マゼンダ・躑躅色・石竹色・撫子色・鴇色・一斤染・薄色・今様・苺色・チェリー・ワインレッド・ボルドー・海老色・葡萄染・紅色・紅・韓紅・深紅・退紅・薄紅・暗紅色・薔薇色・オールドローズ・ローズピンク・薄紅梅・紅梅・桃色・桜色・灰桜・ピンク・ベビーピンク・サーモンピンク・珊瑚色・ストロベリー・茜色・臙脂・蘇芳・浅蘇芳・赤・紅赤・シグナルレッド・緋色・そひ・猩々緋・浅緋・マルーン・マホガニー・桧皮色・小豆色・鳶色・印度赤・金赤・朱色・スカーレット・銀朱・洗朱・潤朱・東雲色・赤丹・丹・黄丹・真赭・赭・代赭色・錆色・べんがら色・赤銅色・煉瓦色・土器色・バーントシェンナ﹂
﹃色名の由来﹄ 江幡潤 東書選書より
ざっと列挙するだけで、これだけ存在します。
︵もちろんこれ以外にもたくさんあります︶
みなさんは、それぞれの色が、どんな色かを、色名だけからイメージできますか?
また、イメージされた色が人によって異なるということも容易に想像できますね。
︻色名と色の対照︼については下記のサイトでご確認ください。想像していた色とぴったりでしたか?
Le moineau さんのサイト
http://moineau.fc2web.com/color/color.html
↑
オススメ。
眺めているだけで心が和みます。
赤系統では上記のとおりとなりますが、茶系・黄系・青系・紫系・モノトーンについてもそれぞれ、色名は存在します。
これらは、時代の変遷によって移り変わっていくものですが、実際にどれだけのターム︵語彙)があれば事足りるのかは、普段どれだけ色に接しているかによっても変わるでしょう。
色名については、例えば、﹁この色が朱色である﹂とある人が表現しても、それが真であるかは分かりません。
たとえ三属性による規定をおこなって、機械的に測定したとしても、その名称は人により異なるし、時代や文化背景によっても移り変わりうるからです。
従って、例えば ﹁このりんごは茜色である﹂という命題があったとしても、これまで検討してきたように、将来真偽が判別できる種類のものではないのです。
﹃色名の由来﹄には次のような引用もあります。 昭和55年3月28日付の各朝刊中、公開捜査の記事についての比較です。
<日本経済新聞>
﹁行方不明時の服装はえび茶色のコートに濃紺のセーター、茶色のブーツをはき、コールテン地のショルダーバッグをかけていた﹂
<朝日新聞>
﹁丸と角の白い模様が入った濃紺のセーター、ピンクのモヘアのカーディガン、茶色の毛の襟がついた黄緑っぽい七分コートを着て、はだ色のアメリカンブーツをはき、薄茶色のコールテン地のショルダーバッグを下げていた﹂
<サンケイ新聞>
﹁行方不明になった当時の服装は、襟に毛のついたウグイス色の七分コート、ピンクのカーディガン、濃紺のセーター、チェックのギャザースカート、茶色のアメリカンブーツというスタイルで、黄土色のショルダーバッグを持っていた﹂
これを表にまとめると次のようになります。
新聞記事による色の表現の違い
日経新聞︻セーター︼濃紺︻カーディガン︼? ︻コート︼えび茶色 ︻ブーツ︼茶色 ︻バッグ︼?
朝日新聞︻セーター︼濃紺︻カーディガン︼ピンク︻コート︼黄緑っぽい ︻ブーツ︼はだ色︻バッグ︼薄茶色
サンケイ︻セーター︼濃紺︻カーディガン︼ピンク︻コート︼ウグイス色 ︻ブーツ︼茶色 ︻バッグ︼黄土色
私たちは、例えば交通信号のように、実際は緑であっても青と認識したり表現したりすることがあります。
日本の古来の色名が明・顕・暗・漠だけであったことは前述した通りですが、この時代においては、青は、漠︵あお︶のなかに含まれ、緑や青を含んだ領域の﹁あお﹂を用いていたと考えられます。その名残りなのです。
前述の新聞記事に見られる色名の差異は、記者会見場という同じ場所においてしめされた同じ見本をみた記者が、その色を認識して、表現を行った結果でてきた差異です。
さらに、この新聞記事を読んだ読者は、各人ともまた様々な認識をするでしょう。
新聞記事の中に表現されている色は、差異があるとはいえ﹁コートはえび茶色である﹂は偽であるとは言えません。
同時に﹁コートはウグイス色である﹂も成り立つのです。
形式論理学を拡張して、語用論の立場から考察すると、﹁えび茶色﹂という性質が真であるためには、そのことを経験的に検証してみなければなりません。
意味論と語用論との区別は、カルナップによって行われましたが、彼の方法論的な現象主義では、感覚に起因する世界は、世界を認識するための可能な多くの方法としての言語的枠組みの中の一つに過ぎない感覚与件言語の枠組みを通して描写・認識された世界であるに過ぎないと考えるのです。
そこに得られるものは世界観ではなく一つの認識を通して得られた世界像に過ぎないのでしょう。
感覚与件の言語の枠組みだけでは、排他的にその枠組みの正当化が不可能であることをカルナップは論証したのです。
再び新聞記事の例を検証すると、﹁えび茶色﹂は記者という、日本語を解し、正常に色覚を有する人間によって﹁観察可能﹂なものであって、﹁コートがえび茶色﹂であることの真偽を記者会見場という状況下での観察に基づいて意思決定されたものです。
これは、総合経験的メタ言語の言明︵語用論的言明︶であると言えます。
﹁えび茶色﹂は﹁観察可能﹂という点から語用論の範囲に属し、我々が日常において対象物を﹁コートがえび茶色﹂であるという場合は、知覚内容としての﹁えび茶色﹂を指すのではなく、その﹁コート﹂という認識主観から独立した物の性質を指すものなのです。
︵以下続く︶