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2006年2月18日
お葬式‥カメラ付き携帯で最期の顔パチリ 困惑派・理解派
お葬式の際、亡くなった人の顔をカメラ付き携帯電話などで撮影する人が増えている。葬儀関係者には﹁人の死を悼む気持ちが荒廃している﹂と感じる人がいる一方で、﹁時代とともに葬儀も変わる﹂と受け入れる人もいる。あなたは、最期の顔を撮影されたいですか?
昨年7月、横浜市内の斎場。出棺前に花を詰め始めると、親族や友人5?6人がカメラ付き携帯で故人の姿を撮り始めた。同市の葬儀デザイナー、出口明子さんにとっては初めて見る光景だった。故人と生前から付き合い﹁本人の意思を尊重した葬儀﹂をサポートしただけに﹁注意すべきか﹂と迷ったが、親族が何も言わなかったので黙っていた。翌月、私的に出席した葬儀でも同じ場面を見た。
全国の葬儀社でつくる全国葬送支援協議会︵総本部・東京都千代田区︶の斎藤浩司理事長︵34︶は﹁月に1度は見ます﹂と話す。﹁中学生や高校生は﹃撮っていいの?﹄という雰囲気だが、30?40代の人は当然のように撮影する﹂と話す。香川県三木町の三木・長尾葬斎組合﹁しずかの里﹂職員、長尾鉄夫さん︵55︶も﹁20?30代の若い人が﹃記録に残す﹄という感じで撮る﹂と話す。
出口さんは﹁人を悼む気持ちが荒廃しているのでは、と気になる。亡くなった方は死に顔なんて絶対に撮られたくないはず。撮影の可否まで遺言を取ることも検討しなければ﹂と困惑。斎藤さんも﹁カメラが身近になり気軽に撮るのだろうが、心の写真を撮っておく︵脳裏に焼き付ける︶のが一番﹂と話す。
一方、長尾さんは﹁葬儀に対する考え方も時代とともに変化してきた。臓器移植が一般化し、遺体が神聖不可侵なものとの考えが薄くなったのでは﹂と理解を示す。
メディア社会論に詳しい評論家・武田徹さんは﹁対象を撮影し、他者とともに確認しなければ“リアリティー”が感じられなくなっている。葬儀も焼香だけでは満足できず、故人との確かなつながりを持ちたいとの思いから撮影するのだろう﹂と分析。カメラ付き携帯などの普及で何でも撮影する風潮に加え、現代人の感覚や死生観の変容という社会背景を要因に挙げている。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060216k0000e040094000c.html
葬儀に立ち会う機会が多いのですが、出棺の際に死者の顔を撮影する方を見かけることは、確かに最近何回か見かけるようになりました。
けれども、やはり、私は死者の顔を撮影することには抵抗があります。
想い出は想いでとして心にとどめておくべきでありますし、故人との確かなつながりを持ちたい=死顔を写真に撮影しておいてそれを後で見返すという気持ちは、モスクワのレーニン廟に現在も永久展示されているウラジーミル・レーニンにも通じるところがあるのでしょうか。
釈尊は四苦八苦の一つとして﹁愛別離苦﹂をあげています。
家族や愛する人、友人を亡くすということは、遺される人にとっても精神的に大きな辛い出来事です。
その深い喪失感、悲嘆を和らげるために葬儀という行為が生まれました。
また、時代の変遷とともに、単に遺される人だけではなく、地域や社会の中で生きてきた人の死を社会的に告知し、認知するという機能も付加してきました。その最たる例が、先日ご紹介した葬列となって伝わっています。
特に葬儀の際に大切に受継がれてきたことは、﹁死者の尊厳を守る﹂ということです。
死者を丁重に弔うと同時に、遺された人が死を事実として受け入れ、死者を心の中の大切なものと認識し、遺された人がこれからの自分たちの生き方について考えること、これが葬儀の最も大切な意義だと思います。
言い換えると、葬儀は、死者との別れの儀式ではなく、故人の一生を閉じるための大切な営みであると同時に、遺された人が故人のいのちを引き継いで生きるための準備を促す、大切な儀式であるとも言えます。
それゆえ、故人の尊厳を守ること、これが第一に優先されなければならないでしょう。
現代人の感覚や死生観の変容という一言で片付けられて良いものではないと思います。