この問いに対して、私は、個としてのジャーナリズムは不偏不党であるべきではないけれども、ジャーナリズム全体としては不偏不党の状態を形成することは可能であろうし、それが望ましい姿であるという意見です。
一般的に、個々の報道機関は、不偏不党であることが健全な状態であると考えられがちです。
しかしながら、仮に全てのジャーナリズムが完全に不偏不党であるとしたら、その最たる状態として考えられるのが、強力な権力の管理下におかれている一極に偏ったメディアによるジャーナリズムしか存在しない状態か、メディアが単体しか存在しない状態です。
このような状態が本当にわれわれのためのメディアと言えるのでしょうか。
ジャーナリズムというものは、本質的に不偏不党ではありえないものであると考えられます。
何となれば、あるニュースソースに対する捉え方は、個人やメディアによって必ず差異が存在するものであるからです。
また、各メディアのもつ資本的・歴史的背景などから、特定の政党もしくは思想に偏った発信を行うのは、致し方ないことでしょう。
さらに、各メディアの伝えられる報道量も、必ず物理的な制限があるため、ここに情報の取捨選択、取り扱いの大きさについて、主観が入ることは避けらません。
このような差異は、個人やメディアのもつバックグラウンドから生じているものであり、そのためにそこから発信される報道には、個人やメディアの意志が少なからず反映されのが健全な姿なのです。
ただし、個性を出すといっても、政治に近づきすぎたり、スポンサーの影響を受けたりしたのでは問題です。
せめて、スポンサーに影響されないよう、また、テレビ放送で言えば、民法のニュース時におけるCMを無くすなど、メディア側独自の努力が必要だと思います。
新聞を例に取ると日本の新聞メディアは欧米の新聞と比較して偏りが少ないと言われます。これは、不偏不党を前提として報道しているということもあるかも知れないですが、日本の新聞の発行部数が欧米の各紙に比べて格段に発行部数が多いことにも原因がありそうです。
多くの購買者を対象とするために、各紙の個性を出し切れていないのではないでしょうか。もっと特徴を出しても良いのではないかと思います。
このことを踏まえ、一つのニュースを、様々なメディアを通して受け取るということはとても重要なことであると考えます。一つの事象を多方面からの切り口から眺めることによって、それぞれのニュースが正しく報道されているのか判断ができることもあります。
また、賛成側、反対側の二者の意見を客観的に比較できるということも重要です。私たちは、情報の受け手として、多様な形態の情報を受け取り、どのようにメディアが機能しているのかを充分に考えていくように努めていかなければならないでしょう。
冒頭に述べたように、私の主張する所は、メディアごとに個性を大きく出したほうがよいであろうということです。
それにより、却ってメディアの主張が明確となり、一つのニュースに対して様々な視点をもつことができます。
情報の受け手は、その様々な主張を含んだ情報を、自分の意志で﹁偏り﹂を承知した上で受け取ることが大切です。多角的な視点から一つの事象を知ることができ、総合的に判断すること、さらに個人が一度選んだメディアを、取捨選択しながら、自分の意見を形成することができます。
多くのメディアがそれぞれの主義・主張をもち、情報を発信していくことにより、結果的には、総体による不偏不党が実現できます。
いわゆる、偏りのるつぼという状態が、逆に﹁不偏不党﹂を生みだすのです。
あからさまな牽引を、そういうものだという認識を持って受け止める必要がありますね。
情報を読み取る力を養うことはとても大事なことだと思います。
投稿者 kameno | 2008年10月17日 20:04