戦前戦後の大本山總持寺

国土変遷アーカイブに戦前陸軍により撮影された航空写真が掲載されています。
終戦直後に米軍により撮影された航空写真と合わせると明治から終戦にかけての変化がよく判ります。
丁度大本山總持寺を見ているところですので、時系列に並べてみます。

20101109-20
(明治36/1906年作図地形図)

明治5年に新橋ー横浜間に鉄道が開通し、鶴見駅もこの時に開設されます。
開業当時は東口だけ、西口が出来たのが大正9(1920)年です。
上の地図はまだ西口が無かったころですね。

鶴見の街は東京から近く、別荘地として栄えました。
鶴見川河口には浅野家の別荘「安芸様屋敷」がありました。
明治40年台に大本山總持寺の建築資材を鶴見川からトロッコで運搬する道「本山みち」が敷設され、後の豊岡通りとなります。

この頃から浅野総一郎氏らによる埋立事業が進み、埋立地には旭硝子、浅野造船、芝浦製作所などが進出し、京浜工業地帯発展の基となりました。
鶴見臨港鉄道はこの工業地帯を結ぶために開設されています。

総持寺ー大師間を結ぶ海岸電気軌道が開通したのは大正13(1924)年です。

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(昭和6/1931年修正地形図)

總持寺が移転してまもなく、新橋の料亭花月の主人平岡広高により、大正4年に東福寺境内を借りて開設した児童遊園地が「花月園」です。


1914年(大正3年)に平岡廣高によって「花月園」の名称で開園された。花月園はフランスのフォンテンブローにあった遊園地をモデルに造成したとされており、当初の敷地は2万5千坪であった。動物園、噴水、花壇、ブランコなどの施設から始まり、「大山すべり」、「豆汽車」などのアトラクションが追加されていった。また近隣を走る京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄本線)に花月園前駅が開設され、来場客のアクセスとした。
当時、園内の売店では花月園名物のまんじゅうが飛ぶように売れた記録が残っている。また場内のダンスホールは谷崎潤一郎の「痴人の愛」の舞台とされている。宝塚遊園地の宝塚歌劇団にならって花月園少女歌劇団を結成し、宝塚との交流も行った。
1925年(大正14年)に入場者数はピークを迎え、拡大を続けた敷地は国内有数の規模となる6万坪程度にまでなったが、当時は10万坪と公称していた。
(ウィキペディア「花月園遊園地」項)

当時は東洋一の大遊園地であり、遊園地だけでなく活動写真(映画館)、少女歌劇も上演されていました。
周辺には料理屋花香苑、三笠園、上遠牡丹園などが出来、一大リゾート地になっていました。

20101101-1936
(昭和11/1936年 陸軍により撮影)

昭和16(1941)年12月、太平洋戦争開戦。
陸軍により戦前・戦中の航空写真が撮影されています。
上の写真から、一大リゾートたる花月園一帯の賑わいがよくわかります。

鶴見駅から總持寺まで門前町が形成されていない理由は、大部分の参拝客は總持寺駅または本山駅を利用したためではないでしょうか。
太い参道が両駅へ伸びています。

20101101-1944
(昭和19/1944年)陸軍により撮影

戦中に撮影された写真で特筆すべきは、總持寺の現在大粗堂が建っているあたりに並んでいる建物です。
これは、戦中總持寺境内に置かれていた「東京警備軍横浜警備隊」の兵舎だと思われます。

この東京警備軍横浜警備隊は、佐々木武雄予備役陸軍大尉が終戦の日に反乱を起こしたことで知られています。


「国民神風隊」を編成し、首相官邸を襲撃

「佐々木武雄予備役陸軍大尉は、横浜市鶴見区東寺尾町興国中学校付近に残留し居たる旅団司令部残務整理員ならび農耕隊の指揮官として七月中旬より服務中、八月十五日午前一時頃(推定)非常呼集を実施し、……浜崎軍曹以下約二十名を引率、……戒厳警備のため東京に出発する旨を通達し……、自動車二台に右兵員ならびに学生五名および相識の地方人三名、断部隊兵約四名を分乗せしめ、かつ重油缶十缶を積載し、かつ自身および地方人一名は乗用車一台に搭乗、四時三十分頃に首相官邸付近約二百米の箇所に到り下車、官邸構内に侵入し、軽機をもって玄関付近に対し約二十発射撃し、さらに学生等を指揮して官邸玄関内に侵入し、重油散布の上、これに点火、退去し、同所絨毯を若干焼き、ついで五時三十分頃、前同様の方法を以て、小石川区丸山町鈴木当時首相私邸に放火し、焼上せしめ、次いで七時頃前淀橋区西大久保在平沼男爵邸に放火の上、焼上せしめて退去せり。 ……」
『憲警400号』より



20101101-1947
(昭和22/1947年)米軍により撮影


戦後米軍により撮影された航空写真には、焼野原から立ち直りつつある街の様子が映し出されています。

東海道線より西側、總持寺・花月園近辺は戦火から免れました。

投稿者: kameno 日時: 2010年11月11日 12:59

コメント: 戦前戦後の大本山總持寺

佐々木武雄と横浜警備隊の研究を行っている者です。
横浜警備隊の駐屯状況、部隊規模の推測する上で大変参考になりました。
ありがとうございます。

昭和19・22年写真では、現在の鶴見大付属中高がある付近に兵舎のようなものがあります。こちらもおそらく軍に使用されていて、横浜警備隊の他、特設警備第51大隊が駐屯していたものと思われます。

投稿者 あさはら | 2016年1月24日 14:19

あさはら様
コメントありがとうございます。、特設警備第51大隊も駐屯していたのですね。資料をあたってみたいと思います。
情報をありがとうございました。

投稿者 kameno | 2016年1月24日 18:33

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