« リスの作ったエビフライ | 最新記事 | 結晶の芸術 »
埼玉県大宮山東光寺において、希望まつり讃仰特別法要が営まれました。
これは、アートフル希望まつり の一貫として東光寺プロデュースにより企画された特別プログラムで、昨年に引続き第二回目の開催であります。
音とアートで つながる 希望(ゆめ)のまち 「おおみや」アートフル希望まつりは、さいたま市・大宮の地において企画開催される市民主体の新しい祭りです。
小さな子どもからお年寄りまで年齢を問わず、まちのいたる所で新しい文化を創り出し、演奏し、踊り、見て、聞いて、触れて楽しむというのがコンセプトです。
市民はもとより、そこに集う多くの人々が作り手となり、それぞれが「希望(ゆめ)」を表現する中で、新しいまちづくりを進め、市民が主体となって企画し、まちづくりや音楽・アート活動をする個人・団体と共に、地元の事業者、商店、企業、行政、福祉団体等との連携、協働を通して新たなまちを共に作り上げてゆきます。
(開催概要より一部抜粋)
午後1時半より行われた法要がこのブログでご紹介する讃仰特別法要であり、この法要にスタッフの一人として随喜する機を得ましたので、参加してまいりました。
本年のサブタイトルは ?共存共生への祈り? です。
共存共生への祈りといえば、曹洞宗の法要では施食会法要が想起されます。
無尽法界有形無形一切諸類が法味を飽満し共存共生を獲得せんことを?このように普く万霊へ平等に施しを行う法要です。
差定の前半は施食会として甘露門?略出班焼香、観音懺法と進行していきました。
後半は懺悔道場。
日本では「人に迷惑を掛けないように」という教育がなされます。けれどもインドでは「生きているうちには人に迷惑を掛けるものだ」というように教えるそうです。ただ、その迷惑を掛けるということに「気づき」、そしてそれを「懺悔」することが大事なことなのです。
この法要では、それを「ごめんね」という分かりやすい言葉で表しました。
参列の皆様方はこれから異界めぐりをしていただきます。
そこには様々な妖怪たちが居ます。
妖怪は異界からの使者です。その存在は私たちへの警告を届けてくれているのかも知れません。
私たちが幸せでありたいのなら、異世界も含めたあらゆるものと共存しなければなりません。
お互いに「ごめんね」から始めれば、あらゆるものとの境はいっぺんに取り除かれることでしょう。
異界で妖怪に出会ったら合掌し「ごめんね」と懺悔してみましょう。
写真左より
『茄子婆』好き嫌いせずに残さず食べているか。食べ物を粗末にするのは、食べ物にも命があるということを忘れているからだ・・・「ごめんね・・・」
『山男』山や森などの自然を大切にしているか。遊びで枝を折ったり葉っぱをちぎったりするのは自然に宿った命を馬鹿にしているからだ・・・・「ごめんね・・・」
『鬼婆』お年寄りを大切にしているか。お年寄りを大切にしないのは、自分が一番偉いと思って年上の人を敬っていないからだ・・・・「ごめんね・・・・」
『泥田坊』田んぼや畑など、お米や野菜が採れる土地に対してちゃんと感謝しているか。ゴミを捨てたり荒らしたりするのは感謝を忘れているからだ・・・・・「ごめんね・・・」
そのほか
『ケラケラ女』人を馬鹿にして笑っていないか
『あかなめ』自分の家の掃除をきちんとして清潔にしているか
『白蔵主』自分より弱い動物をいじめていないか
『青坊主』両親の言うことをちゃんと聞いているか
『見越し入道』普段何気なく歩いているとき、足元にいる小さな虫を踏みつけていないか
『河童』川を汚していないか
『がごぜ』夜まで遊んで夜更かししていないか
『もうりょう』自分より小さな子どもの世話をちゃんとしているか
・・・・・など
さまざまな妖怪たちが現れます。
いきなり出てくる妖怪たちにみな驚きますが、妖怪たちは人の心が生み出したものです。
いわば自らの心に対面して驚いている訳です。
そして妖怪を生み出した心に気づくことにより懺悔の気持ちを喚起させてくれるのです。
参列者は異界巡りの後、本堂須弥壇裏に進みそこで「ごめんね札」を受け取り、札を大導師に心を込めた「ごめんね」という言葉と共に渡します。
その間、本堂内では佛祖礼が行われ仏名が絶え間なく唱えられています。
参列者全員が元の位置に帰ってきたところで、僧侶たちが法鈴を持って観音十代願文を唱えながらぐるりと一匝。
大導師は須弥壇上で先ほど集めた「ごめんね札」を焼却します。
「ごめんね」から「め」が出るという意味も込められています。
普回向には妖怪たちも大間内に繰り出し全員でお唱え。
法要終わって僧侶・妖怪たち退堂の際には万雷の拍手にて見送られました。
この希望まつり讃仰特別法要は東光寺独自の差定です。
ご住職を初め様々な方の柔軟な発想により造り上げられたものです。
「小罪無量」ということばが「ごめんね」ということばに置き換えられても、「餓鬼」が「妖怪」におきかえられてもその本質は変わらないはずです。
一つひとつを分かりやすく、一般の方に受け入れやすい法要にまとめていかれたプロデューサーのM老師、ディレクターのM老師の柔軟な発想には心より敬服いたします。
檀家さんでもなく、信者さんでもない方に、施食会や懺悔道場の意味合い、共存共生への祈りをどのように伝えることができるのかという一種の試みでもありました。
参列の方々は法要内の随所において自発的に合掌礼拝されていましたし、異界巡りでも合掌し「ごめんね」を心を込めて声に出されていました。
参列の皆さま少なからず心に残るものがあったことでしょう。
■昨年のブログ記事
「がごぜ」が解らなくて調べてみました。
富山では山芋のつるに成る実を「ガゴジョ」と言います。その言葉を借りて作られた造語かと思いきや「がごぜ」と言う妖怪がいるのですね知りませんでした。
柔軟な発想だけでなく、創造性、高度な知性がないとできない法要だと思いました。
投稿者 うさじい | 2009年4月 1日 08:14
うさじい様
がごぜ(元興寺の鬼)は平安時代の書物にも登場する由緒正しい?妖怪です。夜な夜な現れるということで、夜更かしをするとがごぜが出るよ・・・などと子どもたちには恐れられました。
富山では山芋の実をガゴジョと呼ぶのですね。ムカゴのようなものですか?
投稿者 kameno | 2009年4月 1日 09:38
ムカゴのことです。
神奈川でもムカゴと呼ぶと言うことは、関東全体は「ムカゴ」が一般的なのでしょうか?
投稿者 うさじい | 2009年4月 2日 05:32
うさじい様
こちらの周辺ではムカゴと呼びます。ガゴジョというのは初めて聞きました。
方言の分布を調べると面白いですね。
投稿者 kameno | 2009年4月 2日 10:37