死亡広告から考える葬儀の意義

家族に最後の置き土産=「生前の付き合い教えて」?天文学者、死亡広告に思い (時事通信)

 「妻と娘に、私との付き合いがどうだったかを書いた手紙を送って」?。20日付の一部全国紙に、風変わりな死亡広告が載った。肩書や住所もなく、氏名のみ。知人への感謝や自らの死生観をつづり、家族への「置き土産」を残した広告の主は、昨年の大みそかの夜、64歳で世を去った一人の天文学者だった。
 元国立天文台助教授で、地球に衝突する可能性がある小惑星を監視する「日本スペースガード協会」理事長を務めた磯部※(※=王へんに秀)三さん。以前から肝臓が悪かった磯部さんは、昨年春ごろから体調不良を訴えて11月に検査入院した。しかし、既にがんが進行していた。
 妻の良子さんは、磯部さんを「やると言い出したらやりすぎるほどの行動派」と評する。広告に載せた文面は、約15年前、皆既日食観測のために医者の制止を振り切ってメキシコの5000メートル峰に登る際に自ら書き、「万一の時は」と良子さんに預けていた。 

[時事通信社 2007年1月27日5時9分 ]



まず、最初に、磯部琇三氏へ心より哀悼の意を表します。

記事中にある磯部琇三氏の死亡広告は、今月20日の新聞に掲載されております。

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広告文を引用させていただきます。


 私は1942年7月16日に大阪で誕生以来60有余年の人生を終えることになりました。その間、各年代毎に多くの方々にご支援いただきありがとうございました。私を支持して下さった方はもちろん、敵対された方々の行動も私の人生を飾り付け変化に富んだ楽しいものとして下さいました。  私は元々神の存在を信じておりません。そのような者が死んだ時だけ宗教に色どられた形式的なふるまいをするのは、理にかなっておりません。ひょっとしたら、私が亡くなればこの宇宙全体も無くなるのではと思ったりしております。万一、皆様の存在が残る場合 には、有意義な人生をすごされるよう願っております。私自身の葬式等一切の形式的な事はしないよう、また、遺骨等を残さないように家族の者に遺言してありますのでご理解下さい。  そのような訳でお香典などは固くお断り申し上げます。  もし、私に好意を持っていて下さった方々にお願いできるものでしたら、妻**、娘**に私とのお付き合いがどのようであったかなどを書いた手親を送ってやっていただければ、この上もない幸いです。娘も、父がどのような人問であったか、理解してくれるでしょう。 短くもあり長くもあった私の人生でしたが、ありがとうございました。磯部琇三


磯部氏は、遺言中で「私が亡くなればこの宇宙全体も無くなるのではと思ったりしております」と記述しています。
これは誰でも一度は頭の中によぎる、「他我は存在するのか」という疑問です。
かつてデカルトは、自分が人間だと思って動く物体は、本当は人間ではなく、帽子と着物の下には自動機械が隠されているのではないかという懐疑を試みています。
一つだけ明白となったことは、磯部氏の疑問に対して、少なくとも一人の自我は磯部氏の死後も存在が残っているという事です。
けれども、このトピックスでは、敢えて他我が存在するのか否かという論議は行いません。それについては別の機会に考えて行きましょう。

本題に入ります。


通常、死亡広告は、葬儀を執り行う喪主または葬儀委員長により、その人の肩書きや業績、経歴を記載し、葬儀の日程や式場を広告するものです。
しかし、この磯部氏の死亡広告は、その形式から一線を画しています。
葬儀のあり方、意義を考える、一つのきっかけとなりうる死亡広告であると思います。


この死亡記事を整理すると
(1)無神論者のため葬儀もお墓も不要
(2)遺された家族に私との想い出を伝えて欲しい

このうちの、(1)については、葬儀も執り行わず、遺骨もお墓も残さない、その考えは人それぞれですから、もちろんそれを否定することはしませんし、この部分はニュースの核心ではありません。
(2)の部分は、無神論をとるものにも、信仰を持つものにも違和感無く受け入れられるものであり、これの部分が冒頭のニュースとして全国に配信されました。


広告に掲載された遺言は、15年前、肝臓を患っている中、皆既日食観測のために医者の制止を振切り、メキシコの5000メートルの山頂に登る際に、奥さんに預けていたものだそうです。
昨年大晦日に肝臓癌により亡くなられた後、その15年前に託された遺言が、遺族により、磯部氏の意思として掲載されたものです。

磯部氏は、遺された家族に多くの想い出を残しました。それは、磯部氏から家族への直接的な想い出であります。
そして、亡くなられた後も、この死亡広告により、遺された家族に、磯部氏を知る多くの方から、家族の知らなかった生き様についての想い出が届けられていく事になるでしょう。
氏の人柄をにじませるメッセージだと思います。

僧侶としての感想を書かせていただくとするならば、一人の人間として、生きているうちにこそ、仏教について親しみを持っていただけるよう、そして、是非曹洞宗の葬儀を執り行って欲しいと心から欲していただけるよう、生とはなにか、死とはなにか、葬祭とはなにか、ということに対して真摯に向きあうことが今まで以上に大切だと実感しています。

葬儀、年回法要には故人ゆかりの人が集まり、故人の想い出話に花を咲かせる。
そういう役割も果たしているわけですから。

人は死して何を遺すのか。
これは生きている間に、じっくりと考えて行きたい命題でもあります。


【関連リンク】

「現代に問われる葬祭の意義」(曹洞宗総合研究センター・1999年)
曹洞宗の葬儀について(貞昌院版)
年回法要の心得(貞昌院版)


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投稿者: kameno 日時: 2007年1月28日 01:37

コメント: 死亡広告から考える葬儀の意義

私は身近な人々が死んでも、「私」の中では生き続けていると思うのです。私の場合、事ある度に祖父母や父のことを思い出しますが、私に対して、言葉では言い表せない「慈愛」を注ぎ込んでくれます。
 私は人は死んでも、その死後には多くのメッセージを残していると思います。人間社会とは、それを受け継ぐことによって発展するものであると思います。
 人の死も死後の法事も、その引継ぎの場でなければならないと思います。それがはっきりされていないために葬儀のことについて、いろいろ勝手なことが言われ、またそれが現代の風潮だなどと安易に受け入れられているのだと思うのです。
 全ての人間は生きているうちに「死」について考えを深めておくことが必要であると思います。

投稿者 zazen256 | 2007年1月28日 04:40

私は人々の死は肉親も含めて、全て私のなかで行き続けていると考えています。つまり私が生きている限り人々の死は私とともに生き続けていると思うわけです。
 例えば、私は既に約60年前に祖父母を、44年前に父を亡くしましたが、いまでも思い出すたびに、私に対して言葉では言い尽くせないほどの「慈愛」を注ぎ込んでくれます。その場で私は引き継ぐべきものを感じ取り、また、力づけられています。
 人の死とはそのようなものではないでしょうか。
 特に、葬儀や法事は「引継ぎの場」であると私は思うのです。
 そのような「引継ぎの営み」によって人間社会は心が維持され、また良い方向へと発展していくのだと思います。
 葬式やその他の法事は人間にとって最も重要な儀式であり、社会的な流行とか風潮などという言葉とは一切、無関係な営みであると私は思います。

投稿者 zazen256 | 2007年1月28日 05:00

こんにちは。ご免下さいませ。

上記の、

>「引継ぎの営み」によって人間社会は心が維持され…

私は常々思うのですが、この地球という一つの生命体の中に活動している我々「生き物」は皆繋がっているのではないでしょうか。よく「世界中のみんな兄弟」なんていう人権フレーズを見かけますが、それ以前に実はみんなくっついているんじゃないかなと思いますね。

人間の中に数億の細胞が活動して、生まれ変わり死に変わりしているように…。

宗教行事は通過儀礼的なものとも言われていますが、本当はそれ以前に「引き継ぎの営み」を実行するために不可欠な「活動」であると考えます。

いかがでしょうか…。ご教授願います。合掌

投稿者 pumpkin | 2007年1月28日 09:29

zazen256さん
まさにそのとおりだと思います。
親から子に伝えられるものは、遺伝子的な引継ぎと、情報としての引継ぎ(ミームの伝達)の2つがあります。
「私は人々の死は肉親も含めて、全て私のなかで行き続けていると考えています。つまり私が生きている限り人々の死は私とともに生き続けていると思う」というのはまさにそのとおりで、人は死後どうなるのかは分からないけれど、縁のある人の心の中で生き続けていくことは確かです。そして、それはその人からさらに他の人へ伝承される事により、ずっと生き続け、受継がれる事になるのでしょう。

pumpkinさん
「生を明らめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり」

地球どころか、全宇宙に繋がりがあるのでしょうね。
細胞レベルで考え、さらに分子原子レベルで考えると、人間の体を構成する物質は常に別の原子と入れ替わっていて一ヶ月も経たないうちに、ほとんどの原子は入れ替わってしまいます。
人は死を迎えると、原子たちは周囲にばら撒かれます。宇宙全体の原子の量は人の生死によって変化しません。
すなわち、人のアイデンティティは、物質ではなく、その配列のパターンであるというところが興味深いですね。
情報の伝達継承の面から見れば、葬儀、年回法要の果たす「引き継ぎの営み」と、磯部氏の遺言と、役割としては同様の部分も多いのではないかと思います。

投稿者 kameno | 2007年1月28日 15:50

私の考え方を認めてくださいまして真にありがとうございました。
 私のコメントには誤字がありました。お詫びします。
私は「行き続ける」と書きましたが「生き続ける」の間違いでした。
 まことに申し訳ございません。
 つまり親戚や知人が死去しても「私」のなかでは「生き続けて」いると思うのです。しかもその方々は事ある毎に、慈愛に満ちた笑顔で、「教え」を「私」に注ぎ込んでくださるのです。
 私たちはその「教え」によって成長し、その結果を後輩に引き継いで逝く必要があると思います。
 このような実践が行われてこなかったし、また行われていないために、人々の心は何時になっても成長しないばかりか、ますます悪い方向へと進んでいくように思われるのです。
 二千年以上も昔にお釈迦様が示してくださった「教え」が未だに常識化していないなんて、不思議なことだと思うのです。

 今後とも何卒よろしくお願いします。

投稿者 zazen256 | 2007年1月29日 04:10

zazen256さん
二千年以上も昔にお釈迦様が示してくださった「教え」が、今も受継がれて実践されているということは、その一人一人の心の中にお釈迦様が生き続けているということなんでしょうね、きっと。

投稿者 kameno | 2007年1月29日 11:54

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