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8月15日、8月盆も最終日となりました。
今夕(地域によっては16日の夕方)送り火をして、お盆の間お迎えしていたご先祖様、あまねくみ魂をお送りします。
そして、今日は終戦の日でもあります。
昨年のでは、永谷の終戦の日を検証する として、貞昌院の先代住職 亀野寛量大和尚が記録した「太平洋戦争終戦の日の記録」を元に、ご紹介しました。
今年は、終戦の日の大本山總持寺(横浜市鶴見区)敷地にあった東京警備軍横浜警備隊について、記事にまとめてみます。
まずは、国土交通省の「国土変遷アーカイブ」から航空写真をたどってみましょう。
「国土変遷アーカイブ」には、戦前戦中陸軍により撮影された航空写真が掲載されています。
終戦直後に米軍により撮影された航空写真と合わせると明治から終戦にかけての変化がよく判ります。
時系列に並べてみます。
太平洋戦争開戦前の總持寺の様子です。
(昭和11/1936年 陸軍により撮影)
当時は、總持寺への参拝は、鶴見駅ではなく、京浜電気鉄道(現在の京浜急行)「總持寺」駅、または鶴見臨港鉄道(現在の鶴見線)「本山」駅を利用していたと考えられます。
航空写真を見ると、鶴見駅から總持寺まで門前町が形成されておらず、「總持寺駅」「本山駅」から太い参道が続いています。
(これが現在の参道となったと考えられます)
そして、昭和16(1941)年12月、太平洋戦争開戦。
(昭和19/1944年)陸軍により撮影
戦中に撮影された上の写真を良く見ると、現在、總持寺の本堂である大粗堂(だいそどう)が建っているあたりに建物が並んでいることがわかります。
これは、戦中總持寺境内に置かれていた「東京警備軍横浜警備隊」の兵舎です。
大本山總持寺の境内に、兵舎があったのです。
そして、この東京警備軍横浜警備隊は、玉音放送を阻止し、クーデターを起こした佐々木武雄予備役陸軍大尉が所属していたことで知られています。
「国民神風隊」を編成し、首相官邸を襲撃「佐々木武雄予備役陸軍大尉は、横浜市鶴見区東寺尾町興国中学校付近に残留し居たる旅団司令部残務整理員ならび農耕隊の指揮官として七月中旬より服務中、八月十五日午前一時頃(推定)非常呼集を実施し、……浜崎軍曹以下約二十名を引率、……戒厳警備のため東京に出発する旨を通達し……、自動車二台に右兵員ならびに学生五名および相識の地方人三名、断部隊兵約四名を分乗せしめ、かつ重油缶十缶を積載し、かつ自身および地方人一名は乗用車一台に搭乗、四時三十分頃に首相官邸付近約二百米の箇所に到り下車、官邸構内に侵入し、軽機をもって玄関付近に対し約二十発射撃し、さらに学生等を指揮して官邸玄関内に侵入し、重油散布の上、これに点火、退去し、同所絨毯を若干焼き、ついで五時三十分頃、前同様の方法を以て、小石川区丸山町鈴木当時首相私邸に放火し、焼上せしめ、次いで七時頃前淀橋区西大久保在平沼男爵邸に放火の上、焼上せしめて退去せり。 ……」
『憲警400号』より
このほか、玉音放送を阻止する流れでは、1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって皇居を占拠したクーデター未遂事件「宮城事件(きゅうじょうじけん)」などがあり、終戦の日を迎えるにあたっては、かなりの混乱がありました。
しかし、陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗し、目的を果たせないことを悟った彼らは自殺もしくは逮捕され、玉音放送(日本の降伏表明)に至りました。
8月15日玉音放送の内容
戦後米軍により撮影された總持寺周辺の航空写真には、終戦直後一面の焼野原から立ち直りつつ街のの様子が映し出されています。
(東海道線より西側、總持寺・花月園近辺は、戦火から免れました)
改めて、戦争でお亡くなりになった数多くの方々へ弔意を表し、この終戦の日を過ごしたいと思います。
なお、本日のブログ記事はあくまでも歴史的事象のごく一部を客観的に記載したものです。
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