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港南の絵本をつくろう会による、「昔の豊かな遊びを子どもたちに伝えるプロジェクト」が進行中です。
かつての豊かな遊びを、一緒に未来に引き継いでいきませんか!
「遊び」は子どもの育ちに欠かせないもの。
港南区では、子ども達はどんなところでどんな遊びをしていたのでしょう。
『港南の絵本をつくろう会』は、昔のさまざまな遊びをヒアリング集にまとめ、将来的には絵本にすることを
目指しています。
まずは、各年代ごとに地域にお住まいの方から遊びの想い出を中心にヒヤリングを行なっているところです。
どの方も、子どものころの思い出を語るときの表情は生きいきとしています。
まるでその時の様子を目の当たりにしているようです。
ヒヤリングの内容は、順次、纏められていきます。
形になった時点でまたお知らせいたします。
たくさんの発見もあったのですが、その中の一つをご紹介します。
それは、戦時中に生産していた「松根油」にまつわる話です。
永谷地区は幸いなことに、大規模な空襲を受けることは無かったのですが、東京、川崎方面より多くの疎開を受け入れていました。
貞昌院にも境内に十数人の家族と、やはり十人前後の兵隊さんが生活をしておりました。
兵隊さんたちは主に何をしていたかというと、山から松の木と根を堀り出してきて、それを下野庭に作られた釜で乾溜し、飛行機の燃料を作っていたということなのです。
これは松根油と呼ばれるもので、村人たちはその松の根の掘り出しと製造の手伝いをしていたそうです。
(松根油と戦時中の永谷)
今日のヒヤリングでも、松根油の話題となり、その中で「松根油を煮出すのに使っていた釜は、貞昌院の天水桶となっていた」ということが新たに判りました。
簡単に纏めると次の通りです。
「戦時中は鉄の供出のため戦前まであった天水桶は撤去されていた」
「戦中、松根油を煮出した釜が戦後不要になったため、貞昌院の本堂に持ってこられ、天水桶として設置した」
「しかし、鉄の質が悪いため、何十年か経つうちに腐食し穴が開いてしまった」
「そこで、新しい天水桶(現在あるブロンズ製のもの)を寄進することにした」
この2行目のことは初めて聞きました。
驚きです。
古いアルバムを取り出して、以前の天水桶が写っている写真を探してみました。
このころは本堂の正面に棕櫚の木があったのですね。
屋根はまだトタン葺きでした。
背景に見える黒いものが天水桶です。
穴が開き始めて水が漏れ出した頃の大きな真っ黒いドラム缶のような天水桶は、子どもの頃の記憶としてしっかり刻み込まれています。
その天水桶が、松根油を煮出した釜だったとは・・・・・