« 梅に疲労軽減効果 |
最新記事
| 編集校正編集校正 »
2010年4月29日
今日の坐禅会から﹃修証義﹄を読みはじめました。
総序︵第一章︶の出だしは﹁生を明らめ、死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり…﹂です。
﹁生﹂とはどういうことか、﹁死﹂とはどういうことか、その真実をはっきり見極めるのが仏教者としての最も根本的問題であるのです。
このブログでは、何回かこのテーマについて考えてきました。
いまを生きる
死後の世界は
﹁死﹂についての考え方は、大まかに分けると次の三つの考え方があるようです。
︵1︶﹁死んだらそれでおしまい﹂という考え方。人が死んだらそれでお終い。御霊や魂といったものも残らないという世界観です。
︵2︶私たちのいのちは、大自然から生まれ、大宇宙という海ではねた一滴の水のようなもので、一瞬現れてすぐに大きな海に還っていくという考え方。
︵3︶身体は無くなっても、御霊︵みたま︶としてどこかに存在し続ける、という考え方。私たちは前世があり、今の人生があり、死後は、死後の世界に存在し続けて、いつか別の命として生まれ変るというものです。
どれが正解かは、自分自身がいざその場になってみないとわからないものでしょう。
生と死をどのように考えるのか、死とどのように向き合うのか、それは人間独自の行為かといえば、そうともいえないようです。
ニホンザルやチンパンジーでも﹁弔い﹂の行為をしているようだということが発表されました。
チンパンジーに弔い文化?
西アフリカのギニアで、野生チンパンジーの母親が、死んだ赤ん坊を抱え続けミイラ化させる事例が3例確認されたとする研究結果を、京都大霊長類研究所︵愛知県犬山市︶などの国際チームがまとめ、27日付の米科学誌カレントバイオロジーに発表した。今回のような行動が群れに一貫して観察されたのは初めて。松沢哲郎所長は﹁死者を弔う気持ちも進化の産物。弔いの起源解明につながるかもしれない﹂と話している。
︵共同通信 2010年4月27日︶
私たちは自分以外の人の死をどう捕らえているのでしょうか。
特に身近な人を失った時の悲しみは筆舌しがたいものがあります。
私たちは一人では生きていくことが出来ない。他の人と何らかの関係性を持って生きています。
死によって、その関係性が断ち切られます。
﹁弔い﹂というのは、その関係性の変化を整理する行為といえるかもしれません。
﹁弔い﹂というのは﹁死者が死後の世界で安楽ならんこと﹂を願うばかりではなく、むしろ残された人のためのシステムなのでしょう。
冒頭の死の考え方のうち︵1︶﹁死んだらそれでおしまい﹂という考え方では、遺された者にとってあまりにも辛いものです。
死者が﹁死後の世界で安楽に住し、私たちを見守ってくれている﹂と考えることにより、遺されたものの心は和らぐことでしょう。
宗教や葬儀儀式は、そのようなことから起こったはずですし、﹁生と死をどのように明らめるか﹂にその大きな役割があるといえます。
お釈迦さまは、死後の世界について無記答とされました。
死後の世界をあれこれ邪推したり、霊の祟りで脅したりするのは、真の宗教とはいえないし、宗教者の態度ではありません。私たちはしっかりこの人生を生きればいいのです。
そしてしっかりと死ねばいい。そうあきらめるのが仏教の死生観です。
ただし、ここでいう﹁あきらめ﹂は﹁断念﹂ではなく、﹁明らめること﹂です。﹁生死﹂は思うがままになるものではないことをしっかりと見極めることが﹁明らめ﹂です。
生死のすがたは、そのまま仏の御いのちのすがたなのです。
このことを踏まえてチンパンジーの事例を見ると興味深いことがいくつか見えてきます。
"Chimpanzee mothers at Bossou, Guinea carry the mummified remains of their dead infants"
by Biro, D., Humle, T., Koops, K., Sousa, C., Hayashi, M., and Matsuzawa, T.
西アフリカのギニアにあるボッソウ村周辺では、30年以上にわたって野生チンパンジーの調査が継続されている。村に近接した山にすむボッソウのチンパンジーの群れは、世界遺産のニンバ山からサバンナで隔てられ、20人前後という少数のメンバーで構成されてきた。本論文は、ボッソウの小さな群れで観察された、子どもの死に対するチンパンジーの母親の行動について、3つの事例を報告している。
1992年、2歳半の子ども︵ジョクロ︶が呼吸器系の病気で死亡した。数週間で死体は完全にミイラ化し、母親のジレは27日以上も子どもの死体を持ち運んだ。
2003年末の乾季には、ボッソウで呼吸器系の伝染病が流行した。5人のチンパンジーが死亡して、群れのメンバーは19人から14人に激減した。死亡したチンパンジーの中には、1歳のジマトと、2歳半のベベという2人の子どもが含まれていた。母親のジレとブアブアは、それぞれ68日と19日にわたって死んだ子どもの体を運びつづけた。
3例とも母親は、つねに子どもの体を持ち運び、子どもの毛づくろいをし、体にたかるハエを追い払った。ハエを追うのに道具を使った例も2回観察された。このような母親の行動は、地面の上に放置した場合では数日内におこるであろう死体の腐乱を防ぎ、ミイラ化を促進した可能性がある。
群れの他のメンバーは年齢や性別に関係なく全員が、子どもの死体に触ったり、手足を持ち上げたり、においをかいだりという行動をみせた。日数がたつと、母親から離れた場所まで、子どもや若いチンパンジーが遊びの中で死体を持ち運ぶようにもなった︵下記動画︶。動画内の1例をのぞいて、死体への忌避的な行動は観察されなかった。特に死亡後数日は強い腐敗臭がただよい、見かけも生きているときとはまったく違ってしまうにもかかわらず、群れの他のメンバーは攻撃的な行動もせず、非常に寛容だった。
<中略>
母親のジレやブアブアは、どこまで子どもが死んだことを﹁理解﹂していたのだろう。特に死亡直後では、死体がまだ生きた子どもであるかのように毛づくろいをする行動がみられた。だが、体がもう動かないということも母親は十分にわかっていたようだ。子どもの手足をつかんで引きずるように運んだり、肩と首の間に子どもの手足をはさんで背中にのせて運んだりという、子どもが生きているときには観察されなかった行動がみられた。ボッソウで子どもが死亡した3事例すべてで、母親が子どもの死体を運びつづけたということは、この行動がボッソウの群れの中では稀なものではなく、観察学習などで受け継がれている可能性もある。
︵論文より一部抜粋。下線はkameno付記︶
チンパンジーの母親が、子どもが生きているか、死んでいるのか、それを理解できていないということは無いようです。
人間に最も近いとされるチンパンジーが死についてどのように理解しているのか︵本当のところは当のチンパンジーのみぞ知るといったところでしょうが︶を解明することは、私たちの生死観、弔いの成り立ちを考察する上で重要な基礎資料となることでしょう。
最近は、都市部を中心に﹁葬儀を行なわずに死後直接火葬をしておしまい﹂とする直葬が増えているようです。さらには、遺骨を引き取ることなく産業廃棄物として処理されてしまう事例も少なくないそうです。
けれども﹁弔い﹂の儀式、葬儀だけはきちんと営んだほうはよい、いや、営むべきであるとつくづく思うのです。
>最近、葬儀社の方が、﹃葬式は、必要!﹄︵双葉新書︶という本を出したそうです。 ちょうどいいタイミングでの出版ですね。 これを期に、葬儀はなぜ必要かという議論が進むことを願います・ 投稿者 kameno | 2010年4月29日 09:50