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| ゆめ観音 9月5日 »
2009年9月 3日
今年7月、国立劇場に大本山總持寺の大祖堂が再現され、﹁石原裕次郎二十三回忌祭典﹂が曹洞宗の僧侶120名による法要として大々的に営まれました。
そのキャッチコピーは
天国からのラストメッセージ﹁ありがとう﹂
でした。
そういえば、マスコミ報道では仏教による葬儀にも関らず﹁天国﹂という言葉が当たり前のように飛び交い、喪主の挨拶や参列者のお別れの言葉でも﹁天国から見守って・・・・﹂などの表現によく触れます。
私はこれまでこの表現に﹁引っかかり﹂を感じていました。
どのように説いていけば間違いに気がついてくれるのだろうか、と。
この状況を、関西学院教授でもあり、浄土真宗本願寺派の僧侶でもある大村英昭師は、次のように分析されています。
いまに我が国で使われる﹁天国﹂という用語には、もはやキリスト教的意味合いはまったく無いばかりか、仏教やキリスト教といった区別立てをも超えて、それこそ”宗教的無党派層”の心象風景に大変よくマッチした言葉になっているように思われます。
︵コラム﹁死んだらみんな天国に行く日本って一体なんなの?﹂﹁我他彼此ニ仏中間﹂より一部引用︶
まったくその通りだと思います。
目くじらを立てて、仏教では﹁天国﹂とは言わないのだよ、と指摘することは野暮なのかもしれません。
”宗教的無党派層”の立場に立って、やんわりと修正していくような心構えで居ればよいでしょうし、死後の世界観を仏教がどのように説いてきたかをきちんと伝えることができれば、自然に修正されていくことでしょう。
ところで、蛇足ですが、曹洞宗の通夜の法要でよく読まれる﹃仏垂般涅槃略説教誡経︵仏遺教経︶﹄で、﹁てんごく﹂という語が何度か出てきます。
お葬式に参列されて、もしかしたら耳にされた方もいらっしゃるかもしれません。
汝等︵なんだち︶比丘、諂曲︵てんごく︶の心は道と相違す。是の故に宜しく応に其の心を質直︵しつじき︶にすべし。当に知るべし、諂曲︵てんごく︶は但だ欺誑︵ごおう︶を為すことを。入道の人、則ち是の処無し。是の故に汝等、宜しく応に端心にして質直を以て本と為すべし。
ここで言う﹁てんごく﹂とは、諂曲=諂い︵へつらい︶、曲がった心のことです。
﹁天国﹂とは、まったく異なるものであるということは、経文を原文で見れば一目瞭然なのですが、耳で聞いただけではなかなか判らないはずです。
むしろ﹁てんごく﹂などという別の意味でなじみのあるワードばかりが心に残ってしまいがちです。
﹁瞋︵いか︶るは地獄、貪︵むさぼ︶るは餓鬼、癡︵おろ︶かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり・・・・﹂
﹁諂曲﹂の﹁てんごく﹂は、阿修羅の世界に渦巻く概念ということを念頭においておけばよいでしょう。
﹃仏遺教経﹄では、結びの部分で次のように説かれています。
汝等︵なんだち︶、若し苦等の四諦に於いて疑がうところ有る者は、疾︵はや︶く之を問うべし。疑を懐いて決を求めざる得ること無かれ。
・・・・疑問やわからないことがある者は、すみやかに、これをを問え。疑問を残して答えを求めないことの無いように。
もしも仏教の教えなどで、また、経文の中の言葉でも、判らないことがあったら、どんな些細なことでも身近に居る菩提寺の和尚さんにお尋ねになるとよろしいと存じます。
このトピックスで取り上げた﹁天国﹂についてでも、死んだ後はどうなるのか、でも。
故人は今、どこに居るのですか?でも。
先ほど読まれた通夜のお経の中で﹁てんごく﹂という言葉が出てきましたけれど、﹁てんごく﹂って何ですか?などなどでも良いでしょう。
きっと、そのような些細な疑問から仏教に関する様々な知識も併せて得られることでしょう。
そして仏教行事における﹁天国﹂という表現も徐々に修正されていくでしょう。
蛇足でした。
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