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2009年8月 5日
先の記事の続きです。
施食会︵施餓鬼会︶における餓鬼について考えて見ます。
曹洞宗で施餓鬼会が施食会と改められた理由には様々あろうかと思いますが、例えば
・亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんは餓鬼と成ってしまっているの?などという檀家さんからの疑問
・私たちも死後に餓鬼になるかもしれない?
・餓鬼に施すという﹁上から目線﹂は如何なものか
・そもそも餓鬼道とか畜生道とか地獄とかいう六道輪廻思想なんてナンセンス
・餓鬼という発想自体が人権問題にかかわるのでは?
このような感じでしょうか。
その根底には﹁餓鬼﹂ということばを避けて通りましょうという考えが見受けられる気がします。
そもそも、餓鬼って何でしょうか。
餓鬼[preta]
サンスクリット原語は元来︵死せる者︶︵逝きし者︶を意味し、ヒンドゥー教では死後一年経って祖霊の仲間入りする儀礼が行われるまでの死者霊をさす。その間、毎月供物を捧げて儀礼が行われるが、もしこうした儀礼が為されない場合は、pretaは祖霊になれず、一種の亡霊となる。
仏教でも死者霊としての用法はあって、閻魔の住所たる地獄へ行ったり人に憑いたり、生者からの供養をうけて望ましい世界に生まれ変わることを願ったりする。
また中国から日本では、新仏の供養と同時に有縁無縁の三界万霊への供養が合して、施餓鬼会の伝統が発展し、今日に至っている。<後略>
岩波﹃仏教辞典﹄中村元他編、岩波書店より引用
現在の施餓鬼法要は、様々な経典、思想が混在して形成されています。
・中国南北朝時代に行われていた水陸会
・仏説盂蘭盆経
・仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経
・地水火風空の五輪思想
・御霊信仰
↓
・日本古来の魂祭り︵たままつり︶
などなど。
民間祖霊信仰に仏教的思想が有機的に交錯し、施餓鬼会の要素を形成している訳でありますので、そのどれか1つが欠けたとしても施餓鬼とはなりえないといえます。
例えば施食会︵施餓鬼会︶法要の差定から大悲・甘露門を省略してしまったら、只の先祖供養、新亡供養となってしまいます。
さて、ここで前回のブログ記事より、施食会︵施餓鬼会︶法要の後半の部分を改めて見てみます。
餓鬼 に向けられた法要 (甘露門) |
↓
[普回向)
願以此功徳 普及於一切 (願わくは この功徳をもって あまねく一切に及ぼし) |
↓
我等與衆生 皆共成仏道 (我らと衆生と みな共に仏道を成ぜんことを) |
↓ |
当山亡僧法界亡僧伽等
当寺開基
万国殉難者諸精霊
・・・・・
檀信徒各家先亡諸精霊
・・・六親眷属七世の父母
有縁無縁法界の含識等
へ向けられた法要 (修証義)
|
さて、この[普回向]の中の
﹁この功徳をもって﹂というのは、餓鬼供養も含めた施しのこころによる功徳を以って
﹁我らと衆生と みな共に﹂というのは、生きている私たちも、亡くなられたご先祖さんも含めて、みな遍く平等に
ということになるでしょう。
だからこそ、甘露門と修証義の間に普回向が読まれ、餓鬼供養から付施食への流れとなるのだといえます。
﹁我らと衆生と みな共に﹂は、さらに言えば
存者福楽寿無窮︵存者は福楽にして寿きわまりなく︶
亡者離苦生安養︵亡者は苦を離れて安養に生ず︶
ということでもあります。
餓鬼というとなにか差別的な思想が含有されているように思えますが、決してそうではなく
・死せるもの全般をさす
・供養を受けていない御霊
・飢饉、戦乱、災害、大火などにより亡くなられた多くの方々
・私たちの中に貪︵むさぼり︶、瞋︵いかり︶、癡︵おろか︶から生じる煩悩の心
といった複合的な概念のものなのですから、餓鬼への回向は、むしろ私たち自身にも向けられているものであるということを認識することも大切でしょう。
単なる施しを行う法要ではなく、自らを省みる機会としたいものです。
餓鬼というと﹁餓鬼草子﹂に描かれた餓鬼がイメージとして定着しています。
東京国立博物館蔵 餓鬼草紙︵平安時代・12世紀︶より部分
この姿はあくまでも象徴的なものであって、物質的に豊かになったように見える現代社会においても、内面を映し出す鏡を通して私たちを見るとこのように見えるのかもしれませんね。
施食会︵施餓鬼会︶法要で最後に読まれる修証義第2章は次のように完結します。
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔 是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり 心念身儀発露白仏すべし 発露の力罪根をして 銷殞せしむるなり
︵我れ昔より造れるところのもろもろの悪業は、皆いつとも知れず我が身にまつわりついている貪︵むさぼ︶り、瞋︵いか︶り、愚︵おろか︶さの妄想が原因である。他から来たのではなく、すべて我が身、我が口、我が意︵こころ︶から生じた罪過である。わたくしは今、仏の前に一切を懺悔する。このように懺悔すると、必ず仏祖は目にみえぬお力をかしてくださるのである。だから、仏祖の慈悲を心に念じ、端坐合掌、懺悔の文を口に唱えて、一切を告白するがよい。自分をさらけ出し、投げ出すまごころの力は、必ずや罪過をつくり出す根ともいうべき貪瞋癡の妄想を消滅せしめ、清浄なる心境に至らしめてくれるのである。懺悔こそ新生の第一歩である︶
このように見ていくと、施食会︵施餓鬼会︶法要で、いかに餓鬼供養の部分が重要な役割を担っているかが良くわかると思います。
時期を問わず行われる施食会︵施餓鬼会︶はもとより、盂蘭盆施会食会︵施餓鬼会︶については ︵随時行われる︶施餓鬼+︵お盆の時期に行われる︶付施食 のどちらが欠けても施食会︵施餓鬼会︶法要とはなりえないのです。
餓鬼とは何かを考えてみると、施餓鬼会を容易に施食会に改めてしまったこと、餓鬼の説明を避けてしまっていることについて問題点が見えてくるかもしれません。
煩悩の心に毒された私たちを省み、生きているものも、どんなに苦しい状況にある御霊︵みたま︶も、全てに広く平等に苦を離れて安楽を得る事ができますよう願う・・・・これほど平らかで思いやりの志を持った法要が他にあるでしょうか。
施食会︵餓鬼会︶法要の持つ意味を改めてかみしめてみたいものです。