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2009年1月 8日
今日の記事は今月11日に貞昌院で開催される歴史カフェのための基礎資料<その1>です。
義号作戦とは
太平洋戦争中の1945年5月24日に沖縄戦で、日本軍が﹁義烈空挺隊﹂を用いて行った作戦のこと。沖縄のアメリカ軍占領下の飛行場に空挺部隊を乗せた爆撃機が強行着陸して破壊活動を行い、飛行場が使用不能となった間に沖縄周辺のアメリカ艦艇に攻撃を行うというものであった。
義烈空挺隊
昭和20年5月24日、諏訪部忠一大尉率いる第3独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が陸軍熊本飛行場を出撃した。12機には奥山道郎少佐率いる義烈空挺隊の隊員が乗り込んでいた。熊本を発った12機のうち6機が沖縄の北飛行場に強行着陸、さらに2機が中飛行場に着陸したとの報告がなされたが、残りの4機は発動機の不調などにより目的地に辿り着けず途中で帰還している。戦後の戦史でも戦時中のまま﹁北飛行場に6機、中飛行場に2機突入﹂の記録が残った。
他方、アメリカ軍の記録では、義烈空挺隊のうち北飛行場(読谷飛行場)に1機のみ、胴体着陸・挺身攻撃に成功している。この機体は滑走路に胴体着陸した状態の写真や、機体の撤去作業中の動画などが記録映像に残っておりよく知られている。飛行中に対空砲を浴びて戦死し機内で突っ伏した状態の搭乗員の写真なども残っている。これらの記録映像から最低1機は確実に突入に成功したと考えられる。アメリカ軍の記録などによると、そのほかの機体は激しい対空砲火により飛行場周辺で撃墜されたとされる。
胴体着陸に成功した重爆に乗っていた空挺隊員︵及び搭乗員︶は、少人数ながら予定通りの地上戦闘・破壊活動を行い、飛行場は混乱に包まれた。後のアメリカ軍の調査によると、駐機中であった航空機9機が破壊炎上したほか、30機近くが損傷を受けた。また、飛行場にあった航空燃料用のガソリンが炎上し、7万ガロンが焼失した。このように飛行場の機能に一定の打撃を与えることには成功したが、天候不良のため日本軍はこの機会を生かすことができなかった。
米軍側死傷者は約20名で、日本兵の遺体は69体︵墜落などによって死亡した者も含む︶が収容された。空挺隊員1名が生存して同年6月12日ごろに島尻南部に到着、日本軍第32軍司令部に戦果を報告しているが、現在もこの人物の氏名は判明していない。
出典‥ウィキペディア︵Wikipedia︶
義烈空挺隊慰霊塔
秋ソレ昭和二十年五月二十四日夜
既ニ敗色濃キ沖縄戦場読谷飛行場ニ特如強行着陸セシ数機ノ爆撃機アリ
該機ヨリ踊リ出タル決死ノ将兵ハ飛行場ニ存リシ多数ノ敵機オヨビ燃料弾薬ヲ爆砕シ混乱ノ巷ト化セシメタリ
為ニ飛行場ノ機能喪失スルコト三日間ニ及ビソノ間我ガ航空特攻機ハ敵艦船ニ対シ多大ノ戦果ヲ収ムルヲ得タリ
コレ我ガ挺進第一連隊ヨリ選出セラレタル義烈空挺隊オヨビ第三独立飛行隊ノ壮挙ニシテ両将兵百十三名全員ココニ悠久ノ大義ニ殉ゼリ
後ニ続ク者ヲ信ジ日本民族守護の礎石トナリシ将兵ノ霊ニ 我等何ヲモッテ応エントスルヤ
︵この慰霊塔は、沖縄県平和祈念資料館・摩文仁の丘にあります︶
太平洋戦争末期の昭和20年3月26日、連合軍は沖縄の慶良間列島に、4月1日には沖縄本島に上陸を開始。4月3日には沖縄北、中飛行場を制圧します。
日本軍は連合軍の沖縄進攻を阻止し、戦局を一気に逆転させることを目的として菊水作戦を実施しました。
この作戦は、いわゆる特攻作戦であり、4月6日からの菊水第一号作戦から6月21日の菊水第十号作戦まで断続的に続けられました。
うち、特攻作戦が末期的状況を呈しはじめていた5月24日に行われた菊水第七号作戦において、義烈空挺隊による沖縄北飛行場・中飛行場の機能を喪失させる空挺奇襲作戦︵義号作戦︶が実施されます。
特攻隊は、自らが爆弾となり爆弾を抱えながら敵機へと突っ込む自爆攻撃ですが、義烈空挺隊は航空機による胴体着陸を強行し飛行場内の敵飛行機を爆破し敵司令部・物資集積所を攻撃するというものでした。
強行着陸後に戦闘を行うため機関短銃・手榴弾・爆薬・擲弾筒・軽機関銃などを身に着けての飛行でした。
義烈空挺隊の奥山隊長以下136人は、97式重爆12機に1機当たり操縦正副2名と搭乗員12人の編成で熊本陸軍建軍基地を飛び立ちます。
攻撃隊は連合軍による激しい迎撃を受けつつも、数機が確強行着陸に成功し、連合軍は大混乱となりました。
義号作戦 昭和20年5月24日
健軍飛行場⇒沖縄
飛行第60戦隊︵沖縄北飛行場を目標︶
先発隊1番機‥誘導・照明弾
先発隊2番機‥爆撃・戦果確認
先発隊3番機‥爆撃・戦果確認
飛行第110戦隊︵沖縄中飛行場を目標︶
今月11日の貞昌院歴史カフェは、実際に先発隊3番機に搭乗されていた方にお話をいただく予定です。
日時 平成21年1月11日午後2時30分より
場所 貞昌院
準備の都合上、参加希望の方は予めご連絡ください。
FAX 045-843-8864
﹁義烈空挺隊が行く前にね﹃ご苦労さん!!﹄と敬礼して、私達の機は先発でしたから10分先に出たんですよ。それで、通信の場所で立つと表がよく見えるんですよね、天蓋から顔を出して、﹃行くぞ?﹄と言うと﹃頼むぞ?﹄と旗を振って見送ってくれました。﹂
﹁義烈空挺隊の10分前に離陸しました。3中隊のうち私は3番機で、沖縄北飛行場に到着すると1中隊が照明弾を落下、2中隊、3中隊が小型爆弾による爆撃でそれぞれ戦果確認をしました。義烈空挺隊が着陸したら狼煙を上げるようになっていました。黄色か赤の狼煙が上がったら着陸成功と、それを見て何機着陸成功ということを私が報告したんです。それで、4機着陸したんです。4つ見えたと思うから隊長が親指を鼻にかすって、指を4本立てたんですよ。これは4機着陸と言う事で、それを打電したんです。﹂
このたびお越しくださる方は、このように飛行第60戦隊として義烈空挺隊と共に飛行し、空挺隊が強行着陸しやすいように先制攻撃し、司令本部との通信という重要な任務を果たされました。
また、この前後に何度も数日おきの沖縄への反復飛行攻撃を行いました。
﹁高射砲はとにかく、主に艦砲射撃でしたがそれは凄かったですよ。両国の花火どころじゃなかった。もの凄かったですから。3000?4000メートルで飛んでいたら皆やられちやいますよ。とにかく探照灯に捕まっちゃったらアウトですね。撃ち方がもの凄いですから・・・。それこそ千発撃って1発当たればいいぐらいの撃ち方でしたね。
それで、あまり上がるとP-38という双胴の夜間戦闘機ですが、こっちが灯火管制で真っ暗にしているんだけど、向こうは前哨灯の明るいのを点けて探しながら飛んでいるんですよ。P-38に捕まっちゃったら向こうは足が速いから大変です。後ろに飛んでいたらわかりますので海上スレスレに逃げて、それでやられなかったんです。だから帰りにはいつも南十字星を見ると、P-38と間違っちゃうんですよ。星が明るいでしょ、大きくてキラキラしているから﹃P-38が来てる!逃げるぞ!!﹄と海上スレスレに逃げ込むと﹃なんだ?、南十字星か・・・﹄というような失敗もありました。﹂
けれども、何度かの沖縄への反復攻撃の中で、ついにP-38による攻撃を受け八代の海に不時着。
全身を負傷するも奇跡的に助かり、熊本陸軍病院で終戦を迎えます。
最近のインタビューで戦争について振返り次のような言葉を残されています。
﹁戦争はもう二度とするもんじゃないと。とにかく私達が中学で教わったのは白人が黄色人種と黒人を駆逐すると、全部植民地にするからそれを防ぐために大東亜戦争をやるということを教わってきました。我々は止むに止まれず大東亜共栄圏を確立するために戦争を始めるということを体の心から叩き付けられていましたから。﹂
今の平和な日本があるのは、このように命を張って国を護ってこられた多くの先達たちによるお陰でもあります。
人と人が殺しあうということは愚かなことである、そんなことは今の日本では誰だって分かっています。けれども戦時中はどうだったでしょうか。だからこそ、かつて戦争の最前線にいらした方の言葉はとても重いものがあります。
11日はどのようなお話を伺うことができるでしょうか。
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