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2008年11月25日
市営地下鉄下永谷駅に程近い山中に、日限地蔵︵ひぎりじぞう︶があります。
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正式には高野山真言宗 八木山福徳院ですが、先日、港南歴史協議会の会合でなぜ﹁日限﹂なのかということが話題になりました。
港南歴史協議会のホームページには港南の民話が収録されていますので、その中の﹁日限地蔵︵下永谷︶﹂を一部引用してみます。
日限地蔵 ︵下永谷︶
むかしむかし、永谷村に飯島勘次郎という、お百姓さんがいました。
いつも、いつも、持病の﹁癪﹂という病気に苦しんでいました。癪は、いまの胃けいれんのことで、胃が何かでねじ込まれるような痛みを起こすものなのです。
ある日、いつものような激痛に、ころげ回っている時に、たまたま、通りかかった一人の旅の僧から﹁伊豆国の三島にある、蓮馨寺という寺にある日限地蔵を信仰すれば、癪の痛みは、たちまち治る﹂と教えられました。
この昔ばなしに出てくる蓮馨寺は伊豆八十八ヶ所の十九番札所です。
三島市 蓮馨寺
本尊 阿弥陀如来
境内の日限地蔵尊は、日を限ってお願いするとかなえられるという言い伝えがある。
さて、﹁日限地蔵︵下永谷︶﹂は次のように続きます。
一生懸命、祈願していると、いつの間にか癪の痛みがなくなっていました。そこで勘次郎は蓮馨寺にお願いして、分身を頂き、大事に永谷村に持ち帰りました。
慶応二年︵1866︶七月、現在の港南区の西の境、戸塚区の舞岡町と接する所に、お堂を建てました。
そこは武相国境の山波が連なり、人里はなれた、霊地としてのおもむきがありました。
昭和三年︵1928︶に、勘次郎の子孫がお堂を修理増築をして、高野山真言宗、八木山、福徳院としました。
この地蔵尊は、長野と山梨にまつられている分身と共に﹁日本三体地蔵﹂の一つといわれ、高さ約八十センチメートルの石仏です。
毎月﹁四﹂のつく日が縁日で、この日に願いごとをすると、必ずかなうといわれています。
﹁四﹂の付く日には、交通の便もわるかったこの山奥へ、伊勢佐木町かいわいのはなやかな街の人たちや、遠くは横須賀方面からも、﹁願かけ﹂に大ぜい訪れ、市もたち、とてもにぎわいました。
この人たちの、あでやかな姿を、一日見ようと、村の人たちは木の間や、やぶのかげから見るのを、楽しみにしていました。
このように、日を限ってお願いするということが、その名前の由来になっているということで間違いないようです。
さて、先日このブログでご紹介した﹃武蔵野探勝﹄を見ると、港南区の日限地蔵にも高浜虚子一行が参拝されています。
その様子が記載されていますので、部分を引用します。
昭和初期の日限地蔵の様子が生きいきと描かれています。
日限地蔵尊は︵貞昌院の︶南の方五六丁谷合ひを上った山の上の林中にあった。私は白山さん凡秋さん夢香さんと連れ立ってそこにお詣した。
この地蔵尊は大層霊験の著るしきお仏との事で遠地からの参詣者も中々多いといふ。
先づ驚いたのは、堂の周囲の林の木々に、まるで素麺を干したやうに掛け渡された数限りもない紅白の古幡であった。
それは竿に立て切れず古いものから斯く吊り下げてある由である。
今日は特に詣者が多いとも見えなかったが堂前に香煙が濠々と立ち上ってゐた。
私達も各お燈明と線香を買ひ受けて之を奉り合掌礼持した。
さて何を祈ったか。
堂守のお婆さん???目のくるくるした、そして口中にどっさり金歯の見えた??の話によれば、日限といふ謂れは、日数を限って願をかける事であって、例へば、この一週間内に病が軽くなるようにとお願ひし、若しそれで験がなければ又日を限って継続祈願するのださうである。
婆さんは ﹁一寸した事なら﹂日とか半日とかに限つてもよいんですよ﹂などといふ。
﹁それでは後三時間ばかりとしてお願ひをかけようかなアゝ選句が済むまでね、その後は如何でもよいから……﹂と興じたは誰方であったかしら。
﹁その御利益が無かつても継続したところで、事が済んで駄目だね。その時は地蔵さんを大に恨むんだね﹂などと云つたのは又他の誰方であったかしら。
かゝる冗談を叩いては見たが、然し周囲の空気には、里人の神仏に対する純な素朴な信仰といつたやうなものが漂ってゐて心惹かるゝところが多かった。
一見病後らしい顔の蒼ざめた十五六歳の眉目の整った一人の娘と、その母人であらうと思はれる女が相並んで何時までも香煙の中に合掌黙祷してゐる姿なども心に止めざるを得なかった。
後でその親子に ﹁あなた方はどちらですか﹂と問ふと、﹁横浜から参りました﹂としとやかに答へた。
堂の側にある掛茶屋のおかみさんが﹁おこわを召し上っていらっしゃい﹂と蒸し立ての湯気の立つ赤飯を皿に盛って呉れた。
それは摂待のためのもので、聞けば今日程ケ谷の新天地から大提灯の献納があるので、そのお祝ひに参詣者に皆振舞ってゐるとの事であった。
私達は暫くそこらを徘徊してやがて元の道を引き返したが、堂後の林中の坂道にかゝつた時果して坂下から、差渡し一皿もあらうところの美しい大提灯を担ぎ来る一団の男女に逢うたのも興であった。
私は興に惹かれて、その提灯の後について又堂まで歩を返した。見ると白草居、雨意、拓水、末曾二の諸君も提灯見物に来てゐる。さうさう越央子さんの顔も見えたよ。
大提灯は堂中にかつぎ込まれる。献納の祈祷が始まる。
吾等は皆物珍しくその光景をうち眺めた。
今一団の男女と云つたが、その中には一人は銀杏返しの、一人は束髪の二人の芸者らしい若い女も交って居たし、又彼女等に手を引かれてゐたセーラー服の小娘なども居て、彼等は仏前の祈祷会の中にうち並んで静かに掌を合せ頭を垂れてゐた。程ケ谷の新天地とは恐らく狭斜の巷であるのであらう。
私達は、それから茶屋に這入って摂待のおこわを食べ且つ一杯のビールを傾けた。手打蕎麦を食うた者もある。
少し微酔を獲た拓水老などは﹁よい物を見た。大提灯は面白かった。然し句にまとめるのは六ケ敷いなア﹂と云ひながらも頻りに句集に耽る様子、白草居さんはいくつもいくつも句帳に認めたと見たは僻目か、果して次のやうに皆よい句を出来してゐる。
これもこれ皆地蔵尊の御利益と思ふべし。
それに引きかへ私一人は・・・お地蔵さんよ、うらめしい。
<後略>
﹃武蔵野探勝﹄︵昭和44年,高浜虚子,有峰書店)
下線はkameno付記
日限地蔵は全国にたくさんあります。
その由緒、ご利益をいくつかピックアップしてみました。
お地蔵さんの縁日は必ずしも4のつく日だけではないようです。
■日限地蔵尊︵島田市︶
日切地蔵尊は、1881年︵明治14年︶に旧・金谷町大代地区、童子沢︵わっぱざわ︶の自然石をここに運び、開山の日正上人︵にっせいしょうにん︶がこれに日限地蔵尊菩薩を刻み、入魂開張し、本尊として現在地より西方200メートルの場所に祀ったことに始まるとされる。 その後1888年︵明治21年︶、遠江国島村の庄屋を勤める山田家9代目当主の山田義一が現在地に地蔵堂を建立したとされる。
日を限って願掛け参りをすれば願いが必ず叶うと評判が高く、静岡県内屈指の霊場として、県内のみならず県外各地から多数の参詣者がある。毎月26日が縁日で8月26日に大祭が行われ周辺は大変賑わう。祈願日は毎月1日、26日、第1・2・3日曜日、9時から16時まで行われる。
■法沢山大雲寺︵岡山県︶
日限︵ひぎり︶とは、日数を切り願い事をすれば適えられるということから名付けられた。
様々な願い事を適えてくれるお地蔵さんとして広く知られ、毎月23日の縁日には植木や衣料、菓子などの店が並び、多数の参拝者が訪れる。
ことに、夏の縁日には夕涼みをかねた人たちで混雑する。
■日限地蔵︵桐生市︶
昔大きな機屋があり、毎晩大入道が出るため家中の騒ぎとなった。ある晩鉄砲で撃ち行ってみると影も形もなかった。明け方に調べてみると点々と血の跡があり、観音院の庭で消えていた。ある夜この家の主人の夢枕にお地蔵様が現れ﹁わたしが毎夜そなたの家の外に立っているのは、そなたの家を守護するため。野天に立っているので衆人の信仰もない。大勢の人々を守護するためお堂を建ててほしい。その時は何日なりと日を限って願掛けをすれば必ず願望をかなえよう。﹂とお告げがあった。さっそく、大勢の人の浄財でお堂が建てられ盛んな法要と祈願をした、という。
このような、言い伝えのある日限地蔵尊縁日は、毎月24日に行われる。
■日限地蔵︵広沢︶
いつのころからか、お地蔵さまは人々に﹁日限地蔵﹂の愛称で呼ばれるようになりました。日を限って病気平癒や子育てなどの祈願をしますと、一層霊験があらたかだったからでした。そのため、年を経るに従って、お地蔵さまは、ますます里人たちの信仰心を一身に集められるようになりました。
■日限地蔵︵豊岡市但東町太田)
鎌倉時代但馬の中心地であった太田。但馬国守護職に任じられた太田昌明は亀ケ城を築いたと伝わる。また、以前、日限地蔵さんがあった場所には日限地蔵屋敷として平地があり、屋敷の守り地蔵が杉木立の中に鎮座されている。現在の日限地蔵堂は、間口3間、奥行5間で、石灯籠に参道がある。
■日限地蔵院 ︵大阪府︶
﹁日限地蔵堂﹂は﹃大阪府全志﹄によると﹁古くから京都知恩院の出張所内にあり、霊験あらたなりと参拝者が少なくなかったが、明治四年︵1971︶八月同出張所が本院に引き上げられたとき、共に京都に移った。しかし、地元の願いにより長光寺に再び安置したが、同寺境内が狭いため同十二年︵1879︶十月二十九日、現在地にお堂を建て町内で祭るようになった﹂とあり、地蔵堂は現在、高野山金剛峰寺末になっています。
﹁日限﹂は日限をきって願いごとをすると叶えてくれるところから来たもののようです。