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2007年1月19日
先日、静学堂の内藤様より、自ら著された ﹃狩野松栄筆 三十六歌仙絵額 大生郷天満宮蔵﹄ を戴きました。
この本は、茨城県常総市︵旧水海道市︶大生郷天満宮に428年間眠っていた三十六歌仙絵額を、5年間にわたり調査研究した報告書となっています。
大生郷天満宮は、太宰府天満宮︵福岡県太宰府市︶・ 北野天満宮 ︵京都府京都市︶と共に、日本三大天神として挙げられています。
︵ちなみに、貞昌院の隣の永谷天満宮は、日本三体の天神さんです︶
日本三大天神 ‥ 太宰府天満宮、北野天満宮、大生郷天満宮
日本三体天神 ‥ 太宰府天満宮、河内道明寺天満宮、永谷天満宮
その由緒ある大生郷天満宮に保存されているのが、紙本著色 三十六歌仙絵なのです。
三十六歌仙額とは
http://seigakudo.my.coocan.jp/profile2.htm
茨城県指定文化財 絵画
紙本著色 三十六歌仙絵 管理者 大生郷天満宮 制作時期 室町時代末期
三十六歌仙は、藤原公任(960-1041)によって、万葉・古今後撰和歌集におさめられたる奈良朝から平安朝の名歌人の中から、特に優れた36人が撰されたことに始まる。
鎌倉時代には歌仙絵として定着し、和歌の流行と似絵︵肖像画︶の隆盛とともに画帖・絵巻物などに多く仕立てられるが、室町時代に入ると扁額として描くというまったく異なった様式を創り出すことになる。
この背景には、当時の和歌と神仏を結び付けるという信仰が神社に扁額を奉納するという流行現象を生んだことも関連しよう。
この三十六歌仙は、もとは下妻城主多賀谷政経の愛蔵品と伝えられ、1576年︵天正4︶10月、大生郷に立て籠もる北条氏堯を討った戦いにおいて天満宮を消失させてしまったため、その罪滅ぼしに鎧太刀とともにこれを奉納したという。
歌を上段に書き表し、その下段に人物を彩色をもって描いてあり、その筆・画とも極めて優れている。土佐流の筆と思われる
https://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kaiga/2-25/2-25.html
なお、三十六歌仙とは、藤原公任の﹃三十六人撰﹄に載っている和歌の名人36人の総称であり、その三十六人の家集を集大成した現存する最古の写本は、﹃本願寺本三十六人家集﹄とされています。
これに影響されて、中古三十六歌仙や女房三十六歌仙などが後世に次々と出てきました。
この絵を描いた狩野松栄は、狩野永徳の父であり、狩野松栄作の三十六歌仙絵額は、大生郷天満宮にしか現存していないそうです。
古さでいうと、日本で10番目に古いとのことで、この三十六歌仙絵額がなぜ、大生郷に伝えられているのかを、東国の天満宮の由緒縁起と比較しながら、その交流を体系的にまとめられた本となっています。
ご興味がお有りの方は是非ご一読ください。
さて、この本に記載されている 永谷天満宮 の内容を、新編相模風土記と比較してみましょう。
天神社、村の鎮守なり、神体は︵長一寸八分︶縁起に拠るに延喜二年菅公筑紫に在りて宝鏡に向ひ躬づから模刻して令子敦茂に興へられし真像なりとぞ、後菅原文時藤原道長上杉金吾等相伝せしを明応二年二月当所の領主藤原乗国︵当国八郷を領し永谷郷に居城せしと云ふ︶霊夢の告により此地に始て宮社を営み安置すと云ふ、其後天文十二年領主宅間伊織綱頼修造を加へ天正十年同氏規富再造せしとなり。末社妙義白山。妙見。稲荷。
別当貞昌院、天神山と号す、曹洞宗︵後山田村徳翁寺未︶旧は上之坊下之坊と号せし台家の供僧二宇在りしが共に廃亡せしを天正十年に至り、其廃跡を開き、当院を起立す、開祖は文龍︵天正十九年四月十六日寂す︶と云ふ、本尊は十一面観音︵長八寸行基作︶。神明宮二、羽黒社、浅間社、以上貞昌院持
﹁注﹂上の坊は上永谷町5358番地附近一帯、現、田辺達雄氏宅東方地域、下之坊は上永谷町3400番地附近一帯、現、鈴木義雄氏宅西方の山腹、故に鈴木義雄家を寺下と呼称す、両坊共に七堂伽藍を具備せしと﹂
︵ ﹃新編相模風土記﹄ より︶
相模国鎌倉郡永谷郷︵横浜市港南区上永谷︶に所在する永谷天満宮の縁起も興味深い。
明和八︵1771︶年の縁起書では、明応二 ︵1492︶年に上杉︵藤原・詫間︶乗国が創設したとありながら、延喜二年に道真が自身の像︵道真木像︶を彫って敦茂に与えたと記している。
また同形の像は道明寺や大宰府安楽寺にもあり、その後の永谷天満宮の御神体︵道真木像︶ は、菅原文時・藤原道長・上杉金吾・上杉乗国と伝世されたという︵遠藤泰助・1981︶。
この道真木像は、相模に配流された敦茂が起居した天台宗寺院を継承したとされる、曹洞宗・天神山貞昌院に普段は安置され、12年︵丑年︶毎に永谷天満宮に遷座されて開帳されている ︵住職の御教示による︶。
さて永谷天満宮における史実の起点は、上杉乗国による明応二年の創設であろう。
ここから藤原氏の血族という論理で先ず道長まで遡り、次に道長との同時生存という論理で菅原文時 ︹高視の子で、貞元元 ︵976︶年に北野天満宮を菅氏領知にした︺に横滑りし、菅原氏の血族という論理で叔父の淳茂に辿りついている。
ただし淳茂は ﹁敦茂﹂と誤記ざれるように、道真に到達する一通過点に過ぎず、淳茂が相模に配流されなかった史実は、永谷天満宮の縁起では熟知されていたと推測される。
そして乗国→道真と遡上したことと並行して、永谷天満宮の道真木像は菅原︵土師︶氏創建の道明寺︵土師寺︶ の本尊と同形の像になりえたのだが、ここで自己矛盾が発生している。
道明寺の本尊の一つは九世紀代制作の十一面観音像である。
ところが永谷天満宮の御神体はあくまでも道真木像であって、貞昌院本尊の伝行基作の十一面観音ではない。すなわち永谷天満宮と道明寺の間に同体説は成立しえないのである。
こうした自己矛盾は十一面観音と天神の霊力をもってすれば、縁起上は何ら問題はないだろうが、乗国に降る系譜にしても、大生郷天満宮や谷保天満宮・入間郡の天満天神社の各縁起よりも新しそうな印象を与える。
︵ ﹃狩野松栄筆 三十六歌仙絵額 大生郷天満宮蔵﹄ 第二章 史実から演技への構築過程、第三節 延長年間を重視する背景、第二項 東国の他の天神社の縁起との比較 より、永谷天満宮に関連する部分を抜粋︶
ここで、出てくる人物を整理してみましょう。
︻系図︼
菅原清公︵770年?842年︶
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菅原是善︵812年?880年︶
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菅原道真︵845年?903年 ︶――――┐
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菅原高視︵876年?913年︶ 菅原淳茂︵?年??年︶
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菅原文時︵899年?981年) 菅原淳祐︵890年?953年︶
藤原道長︵966年?1028年︶
上杉金吾︵1416年・鎌倉を以って畔く︶
上杉乗国(1493年永谷天満宮創建)
※太字は、﹃新編相模風土記﹄による道真尊像伝承の流れ
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由緒縁起としてつたわっていることを、史実と照らし合わせて、歴史学的に考証していく作業というのは大切なことです。
その中で、天満宮の由緒縁起として、相模風土記に記載されていることについて、いくつかの指摘がこの本によりなされています。
由緒縁起を史実に基づいて修正していく必要があるかどうかは、今後の検討課題となりますが、貞昌院に安置されている菅原道真公が自ら彫った尊像がどのように伝わったのか、そのあたりについて、﹃狩野松栄筆 三十六歌仙絵額﹄は、重要な資料をたくさん示していただきました。
この場をお借りして心より感謝申し上げる次第です。