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2006年12月24日
人口減 危機意識がなさすぎる
政府も企業も本当のところは分かっていないのではないか。人口が減り続けることの怖さである。
国は二〇五五年の総人口を、今より三割少ない約八千九百万人とはじいた。女性が生涯に産む子どもの数を示す合計特殊出生率は今と同じ一・二六。十五歳未満は一割にも満たない。六十五歳以上は四割を超える。異様な光景だ。
少子化は今に始まった話ではない。日本では出生率が二・一を割ると人口が減るとされる。二・〇を切ったのは一九七五年。以降、低下傾向は変わらない。
そのうえ人口推計は当たった試しがない。甘く見積もっては、下方修正の繰り返しだ。それなのに、今に至っても対策に本腰が入っているとは思えない。問題が大きすぎて、次世代へ先送りしているのだろうと勘繰りたくなる。
このままいけば年金、医療、介護制度は崩壊する。今は高齢者一人を三・三人で支えているのが、五十年後は一・三人。負担は二倍以上となる。選挙の道具にするなどの駆け引きはやめて、早急に制度を組み替えなければならない。
住宅やオフィスビルはだぶつく。労働力は取り合いになる。女性や高齢者が働きまくってもまだ足りない。外国人労働者の受け入れ拡大は避けられない。モノやサービスの需要はじり貧で、経済は立ちゆかなくなる。
つまり国が足元から崩れつつあるのだ。それにしては、まず政府に強い意志が感じられない。
安倍晋三首相が少子化対策の柱とする児童手当の乳幼児加算は、来年度予算に盛り込むまでに政府内で迷走した。当の高市早苗少子化担当相ですら、実効性に疑いを挟んだという。
従来の対策は﹁働く女性の育児支援﹂の枠にとどまっている。しかし最近は、働き方の見直しこそ必要だとの考えが強まっている。
働く人の三分の一が非正規雇用だ。年収二百万円前後で五年後の暮らしも描けない若者が、子どもをつくる気になるだろうか。結婚どころか恋愛もできないという。
正社員もつらい。ぎりぎりまで人手を絞った職場で、過酷な勤務を強いられる。男性の家事参加は望めない環境で、女性は仕事も家事も育児も背負っている。
男性も女性も仕事と家庭生活のバランスが取れれば、企業にとっても長期的にメリットが大きい。官民が歩調を合わせて働き方を見直し、社会に希望を取り戻す以外に抜本的な対策はない。
http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh200612230203.html
これは中国新聞の社説ですが、まさにそのとおりで、このまま抜本的な対策が取られないままでいると、少子化の進展によって急速に向かう超高齢化社会に、社会の仕組みがついていけず、成り立たなくなる可能性が高くなります。
労働力をどのように賄うのか。
外国人労働者の受け入れを拡大することに甘んじてしまうのか。
そもそも、政府の人口推計がことごとく外れてきているということに問題点があります。
甘い推計を元に取られた政策は、現実と乖離したときに少なからず歪を生じていきます。
それを如実に表わす図をご紹介しましょう。
︵図は讀賣新聞より︶
このように、これまでの人口推計は呆れてしまうという一言に尽きます。
その場しのぎの甘い推計によって、将来的な対策を先延ばしにしてきたツケがこれからの世代に押し付けられてしまうのでは、今の子どもたちがあまりにもかわいそうです。
年金、医療、介護制度だけではありません。
寺院のありかたについて考えてみると、檀家制度そのものも大きく変化していくことでしょう。
例えば葬儀の負担を子どもたちが背負うとなると、負担が増大していく懸念があります。
現在は高齢者1人を3.3人で支えている状況が、50年後は僅か1.3人で支えなければならない社会となるからです。
とすると、少なくとも、自分の葬儀の負担を自分で予め備えておく仕組みが必要になるでしょう。
そして、自分の葬儀のあり方を、生きているうちに考えて決めておく。そういうスタイルが常識になってくるとしたら、葬儀について生前から考えておくということは決してタブーな事ではないということが分かると思います。
端的に数十年後の寺院の姿を予測してみるに、寺院と﹁墓地﹂は切り離された別の存在になっているかもしれません。
檀家制度が形骸化してしまうとしたら、一旦ある寺院の檀信徒となったとしても、流動的に自由に寺院を選びやすい状況となります。
そのときこそ、寺院︵住職の︶真価が問われることになるでしょう。
いかに宗派の教えをわかりやすく説くか。
いかに信者を引き付けることが出来るか。
そのあたりがしっかり出来ている寺院は存続し続ける事が出来るでしょうし、できない寺院は淘汰されてしまうかもしれません。