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2005年5月13日
生死
手桶に水を汲むことによって
水が生じたのではない
天地一杯の水が
手桶に汲みとられたのだ
手桶の水を
大地に撒いてしまったからといって
水が無くなったのではない
天地一杯の水が
天地一杯のなかに
ばら撒かれたのだ
人は生まれることによって
生命を生じたのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めのなかに
汲みとられたのである
人は死ぬことによって
生命が無くなるのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めから
天地一杯のなかに
ばら撒かれるのだ
内山興正老師 ﹃興正法句詩抄﹄
﹁私たちはどこから来て、どこへ行くのか﹂﹁身体と霊魂は同一なのか別なのか﹂﹁この世の中は空間的に無限か有限か﹂﹁時間は無限なのか有限なのか﹂・・・・・
科学が発達した現代社会においても、解明されていないことはたくさんあります。
お釈迦さまの時代にも、このような形而上的、観念的な疑問がありました。
けれども、お釈迦さまは直接の回答を示していません。
これを﹁無記答﹂︵あるいは﹁捨置記﹂︶といいます。
死後の世界があるかないか、われわれ人間がいくら考えてもわからないことです。
あるかもしれないし無いかもしれない。
この、わからないことをわからないことだとするのが、わかることです。それがお釈迦さまの言わんとするところです。
私たちは、死後をどのように考えているでしょうか。
大きく分けて三つの考え方があるようです。
その1、﹁死んだらそれでおしまい﹂という考え方。
人が死んだらそれでお終い。御霊や魂といったものも残らないという世界観です。
その2、我々のいのちは、大自然から生まれ、大宇宙という海ではねた一滴の水のようなもので、一瞬現れてすぐに大きな海に還っていくという考え方。
その3、身体は無くなっても、御霊としてどこかに存在し続ける、という考え方。
私たちは前世があり、今の人生があり、死後は、死後の世界に存在し続けて、いつか別の命として生まれ変るというものです。
皆さんはどのように考えますか?
生を明らかにし、死を明らかにすることは大切な事です。
少しづつこのブログで考えていきましょう。
>わからないことをわからないことだとするのが、わかることです
その通りだと思います!
お釈迦様は、流石にオツな事をおっしゃる!!
投稿者 あさひ素材 | 2005年5月14日 08:18