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2005年4月22日
ポール牧さん死亡、飛び降り自殺か?マンション敷地に倒れる
22日午前4時10分ごろ、東京都新宿区西新宿6丁目のマンション敷地内で男性が血を流して倒れていると、通行人から110番があった。男性はこのマンション9階に住むタレントのポール牧︵本名榛沢一道︶さん︵63︶=写真=で、全身を強く打っており、病院に運ばれたが間もなく死亡した。
警視庁新宿署は状況から飛び降り自殺したとみている。マネジャーが身元を確認した。
ポール牧さんは1人暮らし。マネジャーは﹁最近、仕事が少ないと悩んでいる様子もあった﹂と話しているという。ポール牧さんは北海道生まれ。上京後、漫才コンビ﹁ラッキーセブン﹂を結成、その後役者としても活躍した。﹁指パッチン﹂芸が人気だった。
http://www.sanspo.com/sokuho/0422sokuho004.html
死は人生の輝ける到達点
さて、人間にとって死とは何なのだろうか。
人間として生きてきたことの集約、あらゆるものの集約が死なのである。
天上界の神様が﹁いのち﹂のまわりに三個しか玉を与えてくれなくて、若くして死んでしまったとしても、それは、その人の集約なのである。死を人生の到達点と考えれば、何と神々しく、何とゆるぎなき一点であろうか。
人は皆、プロセスの一点として考えるから、死が恐いのである。先があると思うから恐いのである。だから死んでゆくのにジタバタするわけである。もっと生きたいからである。
でも、死とは、己れの人生の到達点だと考えたときに、それが実にいとおしくなるはずである。大切なのは甘んじて﹁死﹂を受け入れることである。
ある日、突然、武蔵川部屋の武蔵川親方の次男健次郎君が交通事故で亡くなった。一九歳であった。自ら文学者を志したほどの前途洋々たる青年の死を思うと、とても幸いものがある。けれども、周囲の残された人間が、
﹁ああ、健次郎君の人生の到達点が、一九歳だったのだなあ﹂
と思ってやることである。本人は訳がわからず死んだとしても、残された人間がそう思ってあげることが大切なのである。
﹁若くして、死んじゃって、可哀相に﹂
ではないのである。死んだ人にとっては、﹁それが彼の人生の頂点、極み、きらめくような到達点だったのだ﹂と思いやることで、まわりの人々がどれだけ救われるかわからない。そして、残された人々の脳裏に焼き付いている想い出は、いつまでも年を取らない。若くして亡くなった健次郎君は、永遠に一九歳のまま、人々の胸中に生き続けるのである。
死は人生の到達点、と考えることが重要である。
﹃藝禅一如﹄ 熈林一道著 国書刊行会より
ポール牧さん、あなたは﹁死は人間として生きてきたことの集約﹂と書かれていますが、自ら命を絶つことは断じてしてはならないことでした。
原因も動機もまだよくわからないですが、もしも、自殺であるのであれば、元僧侶としてあるまじき行為です。
たとえ、どんなに悩んでいたとしてもです。
厳しい言い方かも知れませんが僧侶としての資質がなかったと言わざるを得ません。
また一人、芸人らしい芸人がこの世を去ってしまったことがとても残念です。
ポール牧さんとは、曹洞宗の僧侶になる前からお会いしたこともあります・・・・速報には本当に本当に驚かされました。
ご冥福をお祈りいたします。合掌。
本当に残念です。
投稿者 kameno | 2005年4月22日 23:20