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今日は12月8日。
日本ではお釈迦様が悟りを開かれた日、成道の日とされ、三仏会の一つとして仏教徒にとって重要な日であります。
約2500年前、19歳で出家修行されたお釈迦様は、インド各地を巡り様々な思想を学びましたが、どの教えも彼を満足させることはありませんでした。
その後、修行仲間とともに体を痛めつけたり断食をする苦行を行じますが、それでも悟りに至ることは無く、苦行の無意味さに気づき苦行を中断します。
ネランジャラー河の岸辺で村娘が作ってくれた「乳粥」を施され、そのままブッダガヤの菩提樹の下で坐禅を組み禅定に入ったお釈迦様は、禅定を妨害する魔物たちをことごとく調伏し、12月8日未明ついに悟りを開かれます。
釈迦牟尼仏言 明星出現時 我与大地有情 同時成道
『正法眼蔵』「発無上心」巻より
かの明星が出現した時に わたしと大地や生きとし生けるものは みな同時に成道した
『現代語訳 正法眼蔵』増谷文雄著より
12月8日の未明、明けの明星の元でお釈迦様は大悟されたのです。
いわば、仏教が誕生したおめでたい日ともいえます。
成道の朝、境内のイチョウです。
ほとんど散ってしまいました。
毎年、この光景に『従容録』第五十七則の「厳陽一物」を思い起こします。
厳陽尊者 趙州に問う「一物不将来(いちもつふしょうらい)の時如何?」
州云く「放下著(ほうげじゃく)」
厳云く「一物不将来箇の甚麼(なに)をか放下せん」
州云く「恁麼(いんも)ならば即ち担取し去れ」
厳陽という僧が、唐代の名僧である趙州禅師を訪ね、問いかけます。
「私は、迷いはもちろんのこと、学問も、悟りも全て捨て去って、持っている物は何一つもありません。この後、どのように修行していけばよいのでしょうか?」
趙州和尚は「放下着」と言い放ちます。
「お前の持っている本来無一物という拘りさえも捨てなさい」
趙州和尚は、厳陽が未だに「無一物」に拘っていたことを見抜いていました。
花は黙って咲き
黙って散ってゆく
そして再び枝に帰らない
けれどもその一時一処に
この世の総てを託している
一輪の花の声であり
一枝の花の真である
永遠にほろびぬ生命の歓びが
悔いなくそこに輝いている
『花語らず』 臨済宗・南禅寺管長柴山全慶老師のことばより
ただただ、あるがままに生きることをイチョウの木は教えてくれます。