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仏教情報センターの総会があり、その日に相談員研修会がありました。
今回の研修会のテーマは「お坊さんが知っておきたいこと」
正木晃先生を講師にお招きしご講演をいただきました。
カラーリング曼荼羅で知られる正木先生は、現在は『法華経ってそういうことだったんだ』という著作を進められています。
現代語訳で法華経を表現する訳ですが、その現代語訳の方法として
世尊 =先生(現代語訳の方法)
のように、より本来の姿、原典の意味に近く、かつ直感的に判りやすい表現に拘った著作になるそうです。
また、如来、仏、釈迦牟尼、ゴータマ・・・と同じお釈迦様を表すことばでも、一般世間にはそれぞれ違うと思われているような、とんでもない質問が来ることも珍しくなく、現代語訳の際には全て同一のことば「釈迦如来」に置き換える作業をされています。
「主語」がわからなければ、その文脈を捉えられないという状況を未然に防ぐ訳です。
西洋では、現代語に訳された「聖書が」各家庭にあり、親しみある文章で書かれています。
仏教もそうであるべきなのでしょう。
これまで、僧侶は、如何に綺麗に「読む」かに重点が置かれ、意味の理解については重視されていなかった。
それは、仏教は祈祷が中心であったことも理由の一つであるけれども、例えば「檀家さんが仏教のこと、お経にどのようなことが書かれているのかを菩提寺の住職に聞くけれども分からない」ということがあるとすれば、それではあまり良くないことではないか。
僧侶がお経の原語や漢語が読めない、理解できないということはのではなく、少なくとも内容がどのようなものかを把握しておくべきであると指摘されました。
また、死後にどのようになるのか、たましいはどこにあるのか、などの疑問にも明確に答えられることも必要。
以下、kamenoメモ元に記事を進めます。
・建長寺では3年間修行、その後修行を定期的に再度おこわなければ建長寺をクビにさせられる
・不登校、非登校・・本当に問題のある者は問題解決を図る場には出てこない。逆に、そのような場所に来る子の殆どは問題がない。
・同様に、研修や勉強会にに積極的に参加する僧侶は問題がないが、出てこない僧侶にこそ研修を受けて欲しい。
住職の資質を高め、保つために住職は永久ライセンスではなく、更新制度が必要。
今後の急速な高齢化、何十年か後に訪れる葬儀数の減少に対応できるよう、また震災のような事象にどのように対応できるかが仏教が生き残る鍵になろう。
(1)宗教の原点は
最近は、仏教やお経=生きている人の生きるための智慧という見解が増えてきており、それにつれて「死者供養」の部分が軽視されてきた。
けれども、もう一度死者供養に回帰してはどうか。
葬儀こそが仏教の原点でもあり、最重要課題といっても良い。
・死者の捉え方。
・死者と生者の対話
(2)思想や哲学、科学では死者も生者も救えない
日本仏教の近代化の悪い部分は、宗教を思想化、哲学化したこと
それでは亡くなった方を救えないのではないか。
(3)鎮魂、供養、回向→供養、回向は出来ても鎮魂は難しい
(4)儀礼は重要。心身の奥底に届く行為
(5)祈祷の本質を考える→祈祷は決して下等な行為ではない、身体から精神向う回路
手かざし、霊気など理論的に解明できないけれども現実的に役に立つものもある。
科学と宗教はお互いに補完する関係にあるべきで、どちらが上とか下ではない。
科学的に解明できなければ現代的宗教ではない、という考えは、宗教が科学にひざまずくのと同じこと。
(6)僧侶でなくても出来ることと、僧侶でなければ出来ないこと
震災で一番活動したのが天理教のひのきしんたいだと感じる。
震災直後から、大規模に重機を使って瓦礫を片付ける作業を行なっていた。
けれども、僧侶にとっては死者供養、説教、お話が重要。それは僧侶でしか出来ないこと。
説教、法要、良いお話というのは、僧侶に対して一般が求められている一番のことである。
浪曲、落語などの芸能も仏教が原点。
楽しくいい話を学ぶということができる力が求められる。
宗門系の大学では、宗学や教学と合わせて、話術も学ぶべき。
(7)本物か偽者か→日本の伝統的な自然観を理解しているか→和魂と荒魂は同じ神
荒々しい→生ら生らしい・・・ つまり、生命力が過剰な状態をさす。
日本をとりまく自然は、元々そういうものであり、その中に私たちが過ごしている。
そのことを理解できていなかった知識人が東日本大震災直後に炙り出された。
幽霊やお化けが徘徊する被災地の現状
幽霊がいるかいないかは分からないけれど、やはり、その人には「見える」という現実がある
(例)海の上を歩く人、水溜りの中にたくさんの目玉が見える、仮設住宅に何かがいる等々・・・
その「見ている」という現実を何かしなければならない。
気のせい、錯覚、幻覚では解決しない現実が被災地にはあった。
仏教の葬儀は仏陀の葬儀から始まった。
(1)仏陀は葬儀について生前に詳しく指示していた(大涅槃経)
(2)遺体に点火したのは仏弟子の大迦葉だった(同)
(3)後に続くものたちを励ますために遺骨を祀るように指示していた(同)
(4)道が十字に交わるところに仏塔を建立し遺骨を祀るように支持(同)
(5)ブッダ自身が父のお棺を担ごうとした(浄飯王涅槃経)
(6)ブッダ自身が継母のお棺を担いだ(増ー阿含経)
(7)仏弟子は仏弟子の葬儀に関わった
(8)呪術的な行為や儀礼は初期仏教から盛んだった
戒=シーラ の意味は、原典をたどると「気だて」
(例)あの娘はとても「シーラ」が良い
戒とは、より気だての良い人になることを目指すためのもの
幽霊=中有
「ゴーディカ」(「相応部」第1集第4篇第3章第3節)、「ヴァッカリ」(「相応部」第3集第1篇第2部第4章第5節)
職(識別力)=ヴィンニャーナの訳語は「たましい」
呪術的な行為や儀礼は初期仏教から盛んだった
先祖崇拝の起源は初期仏教
(1)三道宝階降下(増一阿含経)
(2)ブッダが「五事」を説く(増一阿含経)
法輪を転ずべし、父母を度すべし、信無き人を信地に立て、いまだ菩薩の心を発せざる者に対して菩薩の意を発せしめ、その中間においてまさに仏の決を受くべし
(3)「五事」の「父母を度すべし」=亡き父母に対する特別の孝養。
実は多かった「お迎え」
宮城県名取地区での聞き取り調査
東京大学大学院人文社会系研究科「グローバルCOE「死生学の展開と組織化」の課題と目標」『死生学研究』第9号(2008年)
2003-2007年に実施されたアンケート結果
有効パーセント45.6%
死の瞬間に誰が迎えに来るか、何が見えるか
・既に亡くなった家族知り合い 52.9%
・そのほかの人物 34.2%
・お花畑 7.7%
・仏 5.2%
・阿弥陀如来 0.0%
実に半数以上の方が死のお迎えがあると回答。うち、大部分が既に亡くなっている家族知人と回答。仏様が迎えに来るというのはごく少数。
3種類の「ほとけ」
佐々木宏幹先生の見解
(1)仏教の如来
(2)死者、死霊
(3)成仏した先祖霊、遺骨
本尊もほとけ、先祖もほとけ
人々は教理としてのほとけではなく、身内としてのほとけに惹かれることが自然
チベット生まれ変わり 五体投地を行なう。
どこに生まれ変わりたいか・・・は天界ではなく、人間に生まれたい。
仏教の霊魂感
「識」=ヴィンニャーナ=たましい
インド仏教界の半分は霊魂実在論
プドガラ説 →主流派仏教(小乗仏教)の半数
ミシクペーティクレ=霊魂
表に出てくるものと信じているもののギャップ
ゲルク派
死んだ後はどこに行くか、何をまつるか
魂 と 魄
(雲のような「たましい」=位牌を作って祀る)と(遺骨)
漢字の元の意味をたどると、その深淵が見えてくる。
魂 は見えない何か。「云」は雲のようなものを表す文字。⇒位牌のような実体として代わるものを作って祀る。
魄 は遺骨。「白」は頭蓋骨を正面から見た象形文字。「甶」は頭蓋骨を上から見た象形文字。これに足が生えて「鬼」となる。
お墓、仏壇を祀り、お寺参りをするのは、魂 と 魄 があるから。
現在の世の中で日本ほど遺骨信仰が著しい国は世界中他にはない。
また、遺影を飾る習慣は、戦中骨箱が空だったから葬儀の際に遺影を飾る習慣が根付くようになった。
初期型仏教と大乗仏教のような普遍性が結びつかないと広まらない。
一神教は霊魂の存在が前提
知らず知らずの間にキリスト教的な考えが日本に混入してしまっている
(例)
葬儀の際 天国で・・・・
安らかにお眠りください・・・・
仏教本来の意味を考えると、おかしい表現が巷には溢れている。
日本人は、遺伝子DNAレベルで精査すると、決して 単一民族ではない。
講義をいただいた後、活発な質疑応答が行なわれました。