坐禅の警策は体罰か

座禅でバシッ…体罰にあらず 禅宗僧侶ら「集中のため」 文書配布し周知


座禅中に姿勢が乱れると、バシッと肩をたたかれる。それは「体罰ではない」と禅宗の僧侶たちが周知をはかっている。教育や指導と称した体罰が社会問題になる中、たたく際に使う棒「警策」を体罰と結びつける誤解を解くためだ。
警策は、臨済宗では「けいさく」、曹洞宗では「きょうさく」と読む。臨済宗の妙心寺派は3月下旬、「警策について」という解説文書の案を関係する高校などに配った。意見を募り、見解をまとめる予定だ。文書では「悟っていないものを警(いまし)め、修行が進んでいないものを策(はげ)ます」と語源を示し、「規則を破った罰ではなく、座禅に集中するために行われる」「座禅における警策は体罰ではありません」と明記した。……

朝日新聞デジタル 5月4日(土)5時30分配信


逐一このようなことを説明し周知しなければならない時代になったことをつくづく実感します。
最近はテレビ番組などで、警策(を模した竹の棒)が頭上に落ちてくる罰ゲームのようなものが放送されたりしています。
また、素人が相手を故意に傷つけるために棒を振り回したり、といった、そのようなこととは全く異なる次元のものだということを理解いただく必要があります。
もしも誤解が蔓延しているようであれば、記事のように周知文章を出すことも必要なのでしょう。

座禅(曹洞宗では「坐禅」と記載します)中の警策は、坐禅を行じる者が「坐禅が純に持続(只管打坐)できるよう」に、警策を持って巡回する係(直堂係=じきどうけい)により為されます。
誰もが警策を与えられる訳ではなく、きちんと決められた係のものしか打つことができません。

また、警策を受ける時は、自分で請求する場合と、与えられる場合があります。
坐禅中に警策を受ける場合は、まず肩に軽く触れるので、合掌し、頭を軽く左に傾けます。警策を受けたら、合掌低頭し、感謝の意を表し、頭を戻します。
警策を与えたものも、受けたものも、同時に合掌し、再び坐禅に入ります。


警策が用いられるのは僧堂だけではありません。
大本山總持寺の大祖堂において毎朝営まれる朝課(ちょうか=朝のお勤め)でも、警策の巡回がある場合があります。(最近はあまり行なわれることが無くなったようですが)朝課如常で警策回しがある場合の映像をご紹介します。


貞昌院では、オーストラリアからのホームステイの学生たちによる国際交流坐禅会を行なっています。
坐禅の作法のほか、警策について、警策の受け方を説明して坐禅に臨んでいます。
昨年秋の国際交流坐禅会に参加者したみなさんの感想です。

このほか、これまでの感想はこちらにあります

 

今日のブログタイトルの本題に戻ります。
私個人の意見としても、記事中の臨済宗、曹洞宗の見解と同様、坐禅の警策は体罰とは次元の異なるものであり、体罰にはあたらないと考えます。
それを乱用したり誤解を招いている場合があるとすれば、厳格に正していくべきでしょう。

「いわゆる坐禅は 習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり」『普勧坐禅儀』

坐禅は苦行ではないのです。

投稿者: kameno 日時: 2013年5月 4日 09:44

コメント: 坐禅の警策は体罰か

> 管理人様

この報道、我々も取材を受けたのですが、こちらとしては、体罰の定義が明らかに定まらない限り、比較すら出来ない、ということを堅持しつつ、そもそも警策が行われる状況を考えれば、現在、一般的なイメージとしての体罰とはほど遠いことを説明しました。歴史的に、体罰に近い状況にあったことも、事例や文献を挙げて説明しましたが、その辺は採用されなかったようです。どうも、取材側は同一視を前提に話に来たようですが、最近、坐禅会を行う場合には、体罰的状況に陥ることは、まずあり得ないので、ずいぶん状況が違うということをご理解いただきました。また、参加者の中には、警策を熱望している場合があることも、申し上げています。

投稿者 tenjin95 | 2013年5月 4日 10:07

tenjin95様
体罰との明確な違いは、警策の場合においては、与える者と受ける者の両者が共有する作法があり、それに則り行なわれているということです。
その事実だけで、体罰とは全く異なるものであるということが明示できるでしょう。
結論ありきの先入観をもった取材は本当に困ったものです。

投稿者 kameno | 2013年5月 4日 10:53

コメントを送る