田老地区と防潮堤

龍泉洞からさらに東へ進み、北上山地を抜けると、光景は一変します。

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三陸鉄道北リアス線 田老駅の手前には仮設住宅が並んでいます。

田老地区は度重なる津波被害を受けてきた漁村です。
「津波太郎(田老)」の異名を付けられるほど古くから津波被害が多く、江戸時代初期の1611年に起きた慶長三陸地震津波では、村がほとんど全滅したとの記録があります。
具体的な記録が残るところでは
明治29年6月15日には最大波高15メートルの津波により1859人、
昭和18年3月3日には最大波高さ10メートルの津波により911人もの死者、行方不明者が出ています。

そのために、田老地区では大掛かりな津波防潮堤の建設が進められました。

第一防潮堤は昭和9年から32年度にかけて建設され、高さ10メートル、延長1350メートル
第二防潮堤は昭和37年から40年度にかけて、高さ10メートル、延長582メートル
第三防潮堤は昭和48年から53年度にかけて高さ10メートル、延長501メートルにも及びます。

約80年前から、このような防潮堤が築かれてきました。
この防潮堤により、1960年(昭和35年)に襲来したチリ地震津波では、三陸海岸の他の地域で犠牲者が出たにもかかわらず、田老地区の被害は軽微にとどまっています。
3つの防波堤は 「X」の字の形のように町に横断し、これで大抵の津波は防ぐことができるというモデルケースとして、国内外からの視察も多かったようです。


防波堤が交わっている地点からパノラマ撮影してみました。
おおむね防潮堤の構造がよくわかると思います。

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今回は震災ボランティアの方々に案内していただきました。
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チリ地震の際には堅固に町を守った防潮堤ですが、2011年3月11日の東日本大震災による津波は、海側に築かれた第2防潮堤を500メートルに亘って一瞬で破壊し、市街中心部に進入した津波のため地区では再び大きな被害が発生してしまいました。

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↑一瞬で破壊されてしまった第二防潮堤


このために、地区人口4434人のうち200人近い死者・行方不明者を出すことになってしまいました。
「立派な防潮堤があるという安心感から、かえって多くの人が逃げ遅れた」という証言もあります。しかし、防潮堤はまったく意味が無かったわけではなく、少なからず津波のエネルギーを吸収してくれたのではないかと案内の方は強調されていました。

 

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その後、第一防潮堤と第二防潮堤の間に建てられている たろう観光へ。


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3階部分まで津波により大きな被害を受けていますので、まだ営業は再開していませんが、最上階6階の部屋を使って「防災を学ぶ」活動をされています。

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その生々しい映像を、社長自らが撮影されていましたので、撮影された6階の部屋でその映像を見せていただきました。

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ホテル6階から田老漁港を眺めた光景です。
津波は見えはじめから2~3分で到達してしまい、手前にあったはずの第二防潮堤を破壊し、町の中に進入していくようすが捕らえられてます。

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過去から数多くの津波と向かい合ってきた田老地区ですが、復興とあわせて防潮堤のあり方を含め、この記憶をいかに受け継いでいくことができるか、それが大切なことだと感じます。

昭和9年の津波の後にに建てられた大津波訓令碑には次のように刻まれています。


1.大地震の後には津浪が来る
1.地震があったら此処へ来て一時間我慢せ
1.津浪に襲われたら何処でも此の位い高所へ逃げろ
1.遠くへ逃げては津浪に追い付かる
1.常に近くの高いところを用意して置け
昭和9年3月

投稿者: kameno 日時: 2012年10月 5日 09:54

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