« 宮戸島・月浜・山根旅館 | 最新記事 | 時間のながれ2 »
奥松島宮戸島・月浜の山根旅館のオープンとともに、嬉しい変化がありました。
それは、これまで島の災害対策、支援物資、炊き出しの拠点となっていた里浜の「奥松島縄文村歴史資料館」が本来の機能を取り戻していたということです。
2012年3月18日、奥松島縄文村歴史資料館再オープン!
宮城県には約210か所の貝塚があり、うち、松島湾沿岸には約70か所もの縄文貝塚が集中しています。
松島湾に浮かぶ宮戸島には縄文時代前期(約6800年前)から弥生時代中期にかけての集落跡や貝塚が広範囲に分布し、その規模は日本最大級とされています。
縄文人たちは、数百年~千年単位で集落の場所を移動しながら暮らしていたようです。
縄文村歴史資料館に展示収蔵されていた土器など様々な出土品は、地震のためにバラバラになってしまったものも数多く、それらを再整理する作業がすすめられていました。
一年前には、支援物資が山積みされていた部屋です。
震災後長い間閉められていた資料館も、一年を経て3月に再開。
縄文時代の豊かな暮らしを示す豊富な展示品の数々は見応えがあります。
企画展として、震災と縄文時代の遺跡についての展示がされていました。
宮戸島における今回の東日本大震災による浸水域(写真の青い部分)や過去の津波の痕跡と、貝塚の分布(オレンジの部分)を示した写真は非常に興味深い結果を表しています。
縄文人も、津波が来ないエリアを把握していたのでしょう。
今回の浸水域を見事に避ける位置に貝塚が分布しています。
一つ前のブログ記事で、奥松島に浮かぶ宮戸島は、松島湾の東端に位置するために、東日本大震災の津波により甚大な被害を受けたにもかかわらず、死者はほとんど出なかった。
その理由として
・常日頃の防災意識の高さ
・向こう三軒両隣の地域力
・大自然に対しタカをくくらない心
・不幸中の幸いなことに、明るい時間の地震であった
等々を書きましたが、それに、
・過去の歴史が残されている場所であること
・過去の歴史・教訓が人々の心にきちんと刻まれており、生かされている
ということを加えたいと思います。
-------------------------------------------
宮戸島の中心部にある島の唯一の曹洞宗寺院、観音寺の住職様にも話を伺う時間を取って頂きました。
地震の直後、お寺にいた住職さんは、島の各集落の状況を見に回ったそうです。
そこで見たものは、各集落できちんと避難を終えている人々の姿でした。
お寺に戻る途中で津波が襲ってきたそうですが、お寺の前の道路、「二つ橋」という地名に残されている石碑に逃げていて難を逃れました。
その石碑とは、平安時代に発生した貞観地震の際に大津波が押し寄せ、波がぶつかった場所に設置されていた石碑です。
住職さんは子供の頃から、この石碑の前を通るたびに、石碑の由来を聞かされていたそうです。
「島の両岸から大津波が押し寄せ、島の中央でぶつかった」と。
その両側からの波がぶつかり、橋のように見えたことから、この場所が二ツ橋とされたのです。
今回の津波も、この石碑の手前で止まりました。
宮戸島に居た約1000人の島民は、この石碑より高台にある宮戸小学校などにの避難拠点に一斉に避難したため、浜辺の集落の大半呑み込んだ津波からの犠牲者は僅かでした。
里浜の縄文村歴史資料館の前には、大高森という小高い丘があります。
この丘にも多くの方々が避難しました。
改めて大高森に登ってみると、松島湾に沈もうとしている夕日が水面に美しく反射し輝いていました。
カキ棚もたくさん並んでいます。
過去の歴史・教訓を常に心に刻み、生かしていくことが一番の防災になるのだということを実感しました。