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先人の知恵浸水防ぐ 宮城県南「浜街道」
東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県南の沿岸部で、津波の浸水が江戸時代の街道と宿場町の手前で止まっていたことが、東北大東北アジア研究センターの平川新教授(江戸時代史)らのグループの調査で分かった。平川教授は「過去の津波の浸水域を避けて、街道が整備された可能性が高い。自然と共存するための先人の知恵ではないか」としている。
グループは震災後の国土地理院の航空写真を基に津波浸水域図を作製し、旧街道や宿場町の地図と照合した=地図=。現在の岩沼市にあった「岩沼宿」から水戸へと続いていた、太平洋岸の主要街道「浜街道」に着目。岩沼宿から宮城県山元町の「坂元宿」までの街道と宿場の大部分が、浸水域からわずかに内陸部に位置し、被害を免れていた。
浜街道周辺はほぼ400年おきに津波に襲われている。1611年には慶長三陸津波が発生し、仙台藩領内でも1783人が亡くなったという記録が残る。
街道や宿場は交通や流通の結節点として、人が密集する地域の要衝。平川教授は「慶長津波を受けて、街道や宿場を今の位置にした可能性もある」との見方を示す。
仙台以北の沿岸部についても今後、詳しく分析する考え。
平川教授は「明治以降の近代化や宅地開発などで、津波経験の記憶は薄れてしまった。先人が自然災害の教訓をどう生かしていたかを丹念に調べ、今後の復旧に生かすべきだ」と話している。
(河北新聞 2011/04/25)
「津波のときは井戸を見ろ」 先人の教えで津波避け助かる
先人の教え、津波から住民守る 宮古市の姉吉地区
東日本大震災では、先人から伝わる教えの大切さ、重要性を改めて思い知らされる報道が数多くありました。
いくつかピックアップして冒頭にまとめましたが、そのなかで、一番着目するべき記事は、「津波の浸水が江戸時代の街道と宿場町の手前で止まっていた」という東北大学平川教授の研究結果です。
右上図を見ると、見事に今回の津波の浸水域と江戸街道の線が一致しています。
重要な街道と宿場町の位置決定にあたって、慶長津波などの記録から先人の教えを重要視して、安全な場所に造ったのでしょう。
このように、長期間の間隔をおいて繰り返される災害に対しては、薄れがちな災害の経験や記憶を大切に受継ぎ生かすことが重要であることを改めて思い知らされます。
関東地方に住んでいる者にとっては、関東大震災はもう80年前の話です。
しかし、その時に残された記録、体験者の教訓は常に心の中に留めておく必要があるでしょう。
先人の教えは貴重です。
貞昌院の先々代、先代住職が記録した関東大震災の記録を改めて見直してみます。
大正十二年九月一日
関東大震災、午前十一時五十八分、突如上下動の大激震、咄嗟に起り其の震動極めて峻烈、凄槍極る災厄をもたらし、許多の財宝と生霊とを烏有に帰せしめてしまった。当地域の約五割に及ぶ家産は全潰、殆んど残る家屋は半潰に近い。第一震後も約一分おき位いに余震が襲来し、生ける心地だに無い。その中にあって村民は一致協力、火災の発生防除に全力を尽くす。時恰も昼餉用意の最中、戸外避難の前に、火気の存する所には水をかけ、或は鉢などにて蔽い、当永野地区(注:横浜市港南区上永谷・野庭町)からは全く火災を生ぜさせなかった。
正午を過ぎて間もなく、横浜市街地上空は黒煙濠々渦巻いて空高く立ち込め、物凄い光景が当地区から見られる。時折大爆音を耳にす。横浜港沖合に富士火山系に亀裂を生じ大噴火を成しつつありと流言が飛ぶ。後に、石油、ガスタンクの爆破と分る。
各所に山崩れ起り、道路埋没して交通途絶数ケ所生じたが、全村民総出動で土砂を切り開き、三日後には全箇所開通した。
九月二日正午近くより、刻一刻、戦慄すべき流言が宣伝され、村民挙げて戦々競々と、各小部落互に山の中に小屋を設け、老人婦女子は、まとまって、小屋にかくれ、青年、屈強な男子は、各要所要所の部署に就き、見張り、警戒の任に当たる。間もなく軍隊が到着し全村民安堵し、安き眠りに就くことを得た。
(『永野郷土史』貞昌院28世 亀野源量大和尚による記録より一部抜粋)
関東大震災は、昼を迎える直前に発生しました。
地震の揺れによって、地域の半数の建物は全壊、ほとんどの建物は半壊の状態となってしまいました。
その後も1分おきに続く余震。
関東大震災により、貞昌院の伽藍も倒壊してしまいました。
関東大震災の被害を受ける以前の貞昌院は、絵地図に見られるように、茅葺屋根でした。
貞昌院の伽藍は、明治19年(1886年)の火災から再建された(明治34年再建)直後、関東大震災により倒壊という甚大な被害を受けます。
しかしながら、大震災翌年には茅葺から亜鉛葺きの本堂として再建されました。
地域の方々、檀家さんのご尽力の賜物だと感じています。
復興への力強さを垣間見ることができる顕著な事例です。
『永野郷土史』において、関東大震災の総括として、亀野寛量大和尚は次のように記述しています。
大震災に付随して起る災害については、関東大震災の記録等から次の点が挙げられる。1 大火災の発生
人家の密集地帯程被害が大きい、家屋倒壊の死者よりも火災による焼死者の方が断然多い。
東京府内 焼死者 56,774人(警視庁調)
溺死者 11,233 / 圧死者 3,608 / 負傷者 31,372
東京府の例を見ても一目瞭然である。
横浜市 総戸数 93,840戸 / 焼失戸数 55,826 / 倒壊戸数 18,149
家屋にしても地震による倒壊よりも火災焼失の方が数倍に上っている。
殊に悲惨を極めたのは正金銀行(現県博物館)の建物の堅牢なるを思うてここに避難した多数の人が折角の頼みも甲斐なく猛火の包囲に雪崩を打って地下室に入り込んだまま折り重って全部蒸焼になってしまったことである。2 水道、電気、電話、道路、電車、汽車の通信交通は全面に途絶する。
3 余震の継続
大地震の後は引続き、地鳴りを伴った余震が引っきりなしに襲ってくる。
大地の各所に亀裂を生じ余震によって亀裂に挟まることがあるので、注意せねばならない。4 伝染病の発生
5 海嘯(つなみ)の襲来
海辺近くに放した場合直ちに配慮しなければならない。6 流言蜚語が横行する。
人心が極度の不安に襲われると常識では考えられない程、冷静さを失い、馬鹿馬鹿しいとさえ思うことを信じきってしまうことになるものである。
関東地方在留の朝鮮の方々には誠に申訳けない程の気の毒な思いをさせたものである。7 食糧飲料水の不足
食糧倉庫の焼失、交通機関の杜絶から他地域から食糧が得られない、勿論精米所もその機能を失っているので精米は出来ない。
当時どの家庭でも空びんに玄米を入れ竹棒でつっついて白い米を得るのが一仕事であった。8 失業者の続出
商店、工場の焼失により、職を失う者の数増大し、失業者問題は社会秩序維持の上に最も重大なものとなってくる。大要以上のようなことが震災に伴って波生することを覚悟せねばならない。都市造りに最も重要視しなければ ならないことは思いきった多くの空地、緑地を持つこと である。
(『永野郷土史』貞昌院29世亀野寛量大和尚による提言 より)
時代を超えて学ぶべきことが多い記録、提言です。
私たちは後世の人のためにどれだけのものを残すことが出来るでしょうか。
教区東堂様が先日遷化され、本葬儀にむけて差定帳・記念誌を作成しています。
その中にも、学ぶべきことばが幾つもありました。
・「頼りになるのは他人(ひと)の力、頼りにならないのも他人(ひと)の力」
・「常に最悪を想定して行動せよ」
・「思っちゃいけない。やろうと思った時はしなかったとき。思う前に行動しよう」
・「出来事は全部必然、偶然はない」
(泉区T寺東堂様のことばより)
深い深い教えです。
明治時代の古い地形図を見ると、集落は低地と山地の境目や、自然堤防などの微高地に立地している事がわかります。また古道も低地を避け通っている事もわかります。祖先から学んだ「地形を見る力」の結果なのでしょうね。
千葉県の内陸部・我孫子市で起きた液状化した住宅地などは戦前まで沼だった所を埋め立てた場所だったそうです。この様な情報を購入者が知っていればと思うばかりです。
投稿者 ハマちゃん | 2011年4月27日 17:46
>6 流言蜚語が横行する。
人心が極度の不安に襲われると常識では考えられない程、冷静さを失い、馬鹿馬鹿しいとさえ思うことを信じきってしまうことになるものである。
今の私にとっては重い言葉です。
被害者にもなり加害者にもなり得るということを自戒したいと思います。
投稿者 叢林@Net | 2011年4月27日 23:38
ハマちゃんさま
現在は大岡川・日野川沿いの道となっている鎌倉街道も、古道は尾根伝いの道でした。それぞれ理由があることを改めて感じています。
横浜駅周辺は平沼など湾や沼を埋立てた場所ですから大震災の際の液状化が心配ですね。
叢林@Netさま
震災から四十九日目を迎えました。被災地、特に避難所で生活されている方々は精神的な負担が大きくなることも懸念されます。
先人のことばはそれを少しでも軽減してくれるものだと信じています。
投稿者 kameno | 2011年4月28日 05:37