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11月22日の朝日新聞に南米ペルー慈恩寺の記事が掲載されていました。
まず最初に慈恩寺のアウトラインを。
慈恩寺は、ペルーの首都であり最大の都市、リマから南へ約150キロも離れた海岸沿いに位置します。当時の日本からは、ほとんどこの地に入植したのです。
1903年、曹洞宗僧侶 上野泰庵師が管長辞令で渡航。1907年、カニエテ郡サンタバルバラに南漸寺を建立、翌年、両大本山貫首によって慈恩寺と改称されました。
慈恩寺は、1925年、同郡内サン・ルイス町へ移転。1974年の地震で倒壊し、1977年に現在地へ移転という歴史を辿ります。
しばらく無住状態が続いていましたが、最近国際布教師として大城慈仙師が着任されました。
⇒SOTO禅インターナショナル海外寺院ガイドを参照
朝日新聞の見出しは、?位牌3千置き去り
/「南米最古」ペルーの慈恩寺 日系移民、出稼ぎ・改宗の末? という眼を引くものとなっています。
記事の中には曹洞宗の「曹」の字も出てきませんし、何よりも「位牌置き去り」という印象付けばかりをしている内容となっています。
けれども、本当に「置き去り」なのでしょうか。
慈恩寺の納骨堂・位牌堂は、永代供養墓のような位置づけだとすれば、家族・親族は供養していただくことを願って慈恩寺に預け、可能な限り参拝もされているのではないでしょうか。
慈恩寺について書かれた南アメリカ発の新聞記事を並べて比較してみます。
同じ事象を扱っているはずなのに新聞によってこうも違うものなのかと改めて考えさせられます。
フィルターを通して書かれた記事を鵜呑みにしてしまうと正しい認識を妨げてしまいます。
ここではどちらの記事が正しいかという判断はいたしませんが、
多方面からの情報をあつめ、真の姿を読み取っていくことか大切だと感じます。
位牌3千置き去り 「南米最古」ペルーの慈恩寺 日系移民、出稼ぎ・改宗の末
ペルーに、南米最古とされる仏教寺院『慈恩寺』がある。 |
『移民の聖地』泰平山慈恩寺 創建101周年南米最古の仏教寺 ペルー、絶えない法要会や参拝者 南米第二の日系人口を有するペルーにおいて、「移民の聖地」と呼ばれる場所がある。首都リマから南へ下ることおよそ140キロ、ナスカの地上絵へ向かう途中にあるカニエテ郡の『泰平山慈恩寺』がそれだ。同寺にはペルー日本移民らの位牌約2千500柱が祀ってあるほか、ペルー全土の日本人墓地から集められた土が合祀されている。ブラジル移民よりも歴史が古く、今年創立101年目を迎えた南米最古の仏教寺に足を運んでみた。 -------------------------- 移民2千500柱を祀る / 管理に尽力のグスクマ氏(カニエテ日系教会) -------------------------- 急速に近代化が進む800万都市リマとは打って変わり、カニエテ郡はトウモロコシ畑が広がるのどかな農村地帯だ。この地に1899年からはじまるペルー移民たちの多くが配耕された。カサブランカ耕地には慰霊塔が建つ日本人墓地もある。 中心部のサンビセンテ地区では、キャディラックやダットサンなどの古い自動車がボロロロと音を捲くし立てながら今なお現役で走り、ロバやヤギを連れたインディオが路肩を歩いていた。 慈恩寺は同区のパンアメリカン・ハイウェイ沿いにあった。この地は農村といえど砂漠地帯なので一般の建物は箱型をしているが、同寺にはしっかりと屋根が付いていた。木造ではなくコンクリートの寺だが門構えは風格もある。 17年にもわたり同寺を管理しているカニエテ日系協会のグスクマ・ミゲルさん(60、ニ世)の案内で本堂に通されると、そこには三体の仏像が置かれ、周囲に無数の位牌が所狭しと並べられていた。地下には納骨堂も設けてあった。 堂内に掛けられている慈恩寺創立百周年の記念プレートに寺史が記されていた。それによると同寺は1907年、曹洞宗の僧・上野泰庵がカニエテ郡サンタバルバラ耕地に建立したとある。その後、二度の転移を経て 77年に現在地に至った。 グスクマ氏の説明によると「寺籍は曹洞宗でしたが、現在は無住なので浄土真宗本派本願寺などからも僧侶がやってきます」という。祀られている位牌も各宗派のものが混合しており限定されていなかった。 同寺はペルー日系人協会、日系企業、慈恩寺有志の会などが経費を負担している。彼岸、盆には法要が営まれ、リマ市から多くの遺族が訪れるという。「その時季にはリマ市から日本人学校の生徒たちが訪れ、先祖に焼香して手を掌わせます。これがペルー日系社会の慣わしなんですよ」と誇らしげに話していた。 二世以降はカトリックが多いため、家庭内の世代交代が進むと、それまで家の仏壇にあった一世の位牌を同寺に納めに来る日系人が後を絶たない。また、日本へと出稼ぎに行った家庭の位牌もたくさん納められている。 「日本から訪れる親族が位牌を持ち帰るケースもありますが、年間に三十から五十の位牌がここに持ち込まれるので、位牌は増えていく一方です。もう納めきれませんよ」と苦笑いするグスクマ氏。来年には寺の横に位牌安置所を新設するのだという。 ここには約二千五百柱が祀られているが、以前は位牌が虫に食われ、文字も風化するなど長い間、誰のものかわからない状態が続いていた。 それら位牌を 97年から 01年まで一つずつ調査・整理し、リストにまとめたのがペルー新報元日本語編集長の太田宏人氏だった。 「太田さんのように外部からの支援者がいるので、無住でも心強い。この寺がいかに大切なものなのか、日系社会の人たちはみな理解してくれてます」とグスクマ氏。慈恩寺は世代宗教を問わず、日系人がいる限り『移民の聖地』として存在し続けることだろう。 (サンパウロ新聞 2008/9/5) |
まさにメディアリテラシーが求められるということですね。
インターネットの普及で、これだけ多種多様な情報が巷に溢れ出すと、まさにリテラシーの眼力が必要になってきます。
無秩序に流される情報に責任転嫁するより、我々の見識を高める方に特化した方が良いかもしれません・・・。
投稿者 叢林@Net | 2009年12月 5日 21:32
叢林@Netさま
多角的視点での情報が入るということは情報化社会の長所でもあり、欠点でもあります。
情報があらゆる方向から入ってくる時代だからこそ、様々な視点から事象を眺め、それらを整理して咀嚼することができるのですが、情報の収集整理を怠って一つの記事だけで物事を判断すると誤ったものの見方をしてしまうということですね。
投稿者 kameno | 2009年12月 6日 10:22
上野泰庵の生家の者です。泰庵が為した慈恩寺の状況伝えて下さりありがとうございます。 生家の上野家は、現兵庫県神崎郡神河町宮野です。当時は寺前村宮野でした。家は代々300年前から現神崎郡市川町鶴居にあります浄土真宗本願寺派 妙楽寺の門徒であり、泰庵もそうでした。 泰庵は幼少より学問を学び志していましたが、家が貧乏な為、学べません。それで、能力と状況を知った、現市川町屋形地区の宝樹寺の檀家のみなさんが
将来 宝樹寺の住職になり 護寺及び檀家子孫の教育に当たってくれるなら、その学費を出そうと言ってくださり、学ばせていただき そしてペルーに渡る機会になったものです。
屋形地区のみなさんの恩は尊く、帰国後 恩に報いるべく宝樹寺にいることになりました。 以上 亡き父や叔母から聞いていること記させていただきました。
投稿者 上野友昭 | 2014年6月 7日 11:04
上野様
コメントありがとうございます。
直接関わりのある方からのコメントはとても貴重で有難いです。
「慈恩」の言葉そのままに過ごされた泰庵師の一面を垣間見ることができました。
当時の日系移民の苦労は想像を絶する過酷なものだったと存じます。それでも辛抱強く困難を乗り越えてきた方々の足跡は決して忘れることが出来ないと考えています。
投稿者 kameno | 2014年6月 7日 21:24