歴史の改竄を許すな への反駁

今日の記事はゆめ観音実行副委員長としての立場で書いてみます。

まずはブログの文章を引用させていただきます。


★ 歴史の改竄を許すな / 地の声

歴史の改竄を許すな

「神奈川県鎌倉市の大船観音寺(横山敏明住職)で五日、第十一回ゆめ観音アジアフェスティバルが開催された。大船観音寺とSOTO禅インターナショナル(SZI、細川正善会長)などでつくる、ゆめ観音実行委員会の主催でアジアの平和と国際親善を祈るイベントとして毎年企画されている。‥観音像前のステージで行われた開会式では、SZIの細川会長が、世界平和を祈って昭和四年に建立された同観音像の歴史に触れながら『仏の教えの慈悲の原点に立ち返り、平和共存の実現に努めてまいりたい』との平和宣言をした。‥」(9.8『中外日報』)

同観音は、観音思想の普及により「国民思想を中道の妙理に導き平和の礎を築かんと」※、浜地八郎や頭山満ら有志が護国観音像建立会を組織し、昭和四年に着工されたものである。ここで言う「平和」とは、大アジア主義者頭山満の参画と護国観音の名が示すように、あくまでも日本を中心とした「平和」であることに留意する必要がある。同観音は未完成のまま中断されていたが、戦後高階瓏仙が師である日置黙仙の遺志を継ぎ完成させた。
着工の前年昭和三年には、三・一五共産党大弾圧事件があった。混沌とした世相のなかで、国家が思想弾圧をおこなった。この観音建立も反共的色彩の濃いものであった。「中共の革命を真似た間違った革命の激流を、観音の大慈心によって食い止めねばならぬ」と前掲書で久野来応は述べている。
昭和二十九年には高階瓏仙らが発起人となって財団法人「大船観音協会」が発足。この頃十五年戦争の犠牲者二百有余万を「英霊」として祀っている。
即ち、大船観音は侵略戦争を美化するものであって決して「世界平和」を祈るものではないのである。真実を知り、侵略者の「英霊」を拝まされていたことに気付いたアジアの人達の心中を想像するだに恐ろしい。そのことを大船観音はどう説明しているのか。
もしも「英霊」問題を隠したまま、「アジアの平和と国際親善を祈るイベント」を行っているとしたら、侵略戦争で犠牲となった1700万人ものアジアの人達を二度殺すことになるのではないか。SZIの細川会長の、かかる歴史改竄と本質隠蔽は極めて重大であると言わねばならない。

※久野来応『大船観音と高階禅師』(『高階瓏仙禅師伝』p.360)
曹洞宗「人権・平和・環境」(旧「曹洞宗に現場の声を届けよう」)No.1049 2009/09/10(Thu) 17:51:32より記事を引用 (下線はkameno付記)


 

言論の自由が保障される時代ですからどのような主張をされるのは勝手ですが、実際に大船観音に参拝したこともなく、ましてやゆめ観音に参加したこともない者がこのよう記事を書き公開しているということはとても残念です。

このブログ記事の中で「地の声」氏の論点を纏めると次のようになるしょう。

(1)大船観音は日本を中心とした平和の礎を築くために建立された
(2)大船観音は反共的色彩の濃いものである
(3)大船観音は靖国神社から分祀した英霊を祀っている
(4)大船観音は侵略戦争を美化するものであり、世界平和を祈るものではない
(5)英霊問題を隠していることは侵略戦争で犠牲となった1700万人ものアジアの人を二度殺すことになる
(6)従ってSZI会長の歴史改竄と本質隠蔽は極めて重大である

 

まずは大船観音の歴史的背景をかいつまんでまとめてみます。

昭和2年

この国を憂え、この国を護ろうとする金子堅太郎氏、頭山満氏、清浦圭吾氏、浜地天松氏、花田半助氏らが集い、「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」と
いう「護国大観音建立会」の勧募が始められる。

昭和4年

大船観音起工。
「日本一の大観音像建立の工事は、先般来、地均し工事中であったが、数日前、地均しが完成したので、14日愈々、起工式を行ふことになった。立像台石高さ30尺、身長百尺の鉄筋造といふ偉大なもので、奈良東大寺に在す日本一の大仏さんに約2倍の高さである…」『横浜貿易新報』(昭和4年)
しかし、建立予定地が丘の突端で地層が東側斜面に崩れる地層であることから、当初の計画である立像建立を変更しなければならないこととなり、坐像を検討したが地形との調和がとれないことから、胸像に変更された。

  世界恐慌、大戦により工事は中断。
頭山満氏らも没し、花田氏らが絶対としてきた天皇主義が敗戦によって崩壊したこと等から、観音像建立への覇気は薄れ、 観音像は未完成のままの状態で23年間放置された。
昭和28年

朝鮮戦争による特需で、日本は一気に経済力を復興させ、高度成長の時代を迎え、観音像再建の動きが強まる。
後に五島美術館館長となる西村清氏は五島慶太の「未完成のまま荒れ果てた大船観音を完成するよう」指示を受け、財団法人の設立手続きから大本山總持寺へ経営が移譲されるまでの間、業務を統括することとなった。

昭和29年 財団法人「大船観音協会」が安藤正純氏、高階瓏仙禅師、五島慶太氏らが発起人となって発足。
画家の和田三造氏、建築家の坂倉準三氏らに意見を求め、東京芸術大学教授で建築家の吉田五十八氏を中心に、同大学教授で彫刻家の山本豊市氏の設計と指導のもとに修仏工事が進められることとなる。
昭和32年 修仏工事起工
昭和35年 落慶
昭和45年

神奈川県原爆被災者の会において被爆25年の記念事業として原爆犠牲者慰霊碑建立。

昭和54年 「大船観音特別維持会 」により財団法人「大船観音協会」解散、宗教法人への移行を決定。
昭和56年 曹洞宗包括寺院「大船観音寺」として神奈川県より寺院としての認証を受ける。

 

 

「地の声」氏の主張されるとおり、大船観音建立当初は「護国大観音建立会」「世相浄化」という目途も含まれていたことも確かなはずです。
けれども、大船観音は完成に至らず、戦後しばらく工事半ばで放置されてしまいました。

工事中断を憂慮し、高階瓏仙可睡斉主(=当時)は次のような完成促進総願文を出しています。


今般忠霊顕彰会の発起に依り皇軍の英霊は各地に奉祀されるることとなれり。然れども未だ支那軍戦死者の霊をも平等に供養する表式無し。依って本会は日支親善の情誼及び宗教的超越観地より怨親平等の大慈悲心に基づき皇軍幾萬の英霊と倶に同じく興亜戦線の犠牲たる支那軍の戦霊をも併せ祀りて平等利益の法楽を薦め離苦得楽の冥福を回向して<中略>目下大船駅頭に聳ゆる未完成なる大観音の完成を達成して興亜戦霊総供養の一大記念佛と為さんと欲す。
『大船観音完成促進総願文』(昭和14年10月 完成促進総願主 秋葉総本殿遠州可睡斉主 高階瓏仙)


昭和14年、日本各地に所謂日本軍を讃える「英霊」が奉祀されていく世の風潮の中で、日本人も中国人も平等に供養していくということを主眼として大船観音完成を願う高階禅師の願いが明記されています。
大船観音再建募金趣意書は発起人鳩山内閣法務大臣牧野良三氏ほかにより次のように記載されています。

「大船観世音菩薩の尊像を一日も速やかに完成し、名実ともに法煙たなびく霊場として、十方世界を慈照する大観音の運遠崇高無比な聖姿を仰ぎ、法悦と随喜の光がおのずから心の闇を照らし、国民道義を清浄無垢な真の姿に復元し、日本の興隆と世界の平和に不動の礎を築く一助と致し、また、さきの大戦に殉ぜられた二百有余万の英霊をこの尊像の胎内にお迎えして悠遠の生命が、この霊座に鎮座ましまし、法楽の供養をささげ奉ることを祈念いたし、大船観音尊像の完成を発願いたしました」
『大船観音再建募金趣意書』(発起人・鳩山内閣法務大臣牧野良三氏ほか)


これは勧募趣意書の文言です。
大船観音は修仏により、すべてが一新されることととなりました。
戦後「大船観音協会」設立により「護国大観音建立会」「世相浄化」という目的は消滅したこととなります。
以来、観音像は昭和54年まで財団法人「大船観音協会」の名によって運営されます。

大船観音は昭和35年に落慶しますが、その際に胎内にお迎えしたのは、靖国神社に祀られている「英霊」ではありません。
しいて言えば、境内に「鎌倉市戦没者の英霊を鎌倉観音胎内に祀る」(昭和35年 鎌倉市遺族会建立)とありますから、遺族会が戦没者を慰霊するために位牌と戦没者名簿を納めたということが大船観音再建趣意書の「英霊」にあたるといえるでしょう。
この場合の英霊は後述いたしますが、戦没者として供養されるものという意味合いであることは明白です。
実際、大船観音建立の年である昭和35年、大船観音協会時代の年中行事を見てみると

  • 元旦初詣り
  • 初観音会
  • 節分会
  • 春季彼岸会
  • 花まつり
  • 大祭(秘仏開扉)
  • 四万六千日
  • 地蔵まつり
  • みたままつり(盂蘭盆会)
  • 全国戦没者追悼日
  • 秋季彼岸会
  • 菊供養
  • 七五三まつり
  • 納め観音会
  • お焚きあげ式
  • 除夜

となっています。
現在の大船観音行事と殆ど変わっていません。
この中で戦没者追悼法要については現在も鎌倉市遺族会施主により鎌倉市行事として行なわれています。

昭和45年には原爆投下25年事業として神奈川県原爆被災者の会により原爆犠牲者慰霊碑建立され、毎年9月末に原爆死没者の関係者が集い、慰霊法要が行われています。

暫くの間は財団法人として運営されていましたが、観音像を参詣する信者らから「信仰の場への移行」という要望がさらに切なるものとなりました。
大船観音協会理事長に曹洞宗大本山總持寺貫首岩本禅師就任を機に財団法人「大船観音協会」はその解散と宗教法人への移行を決定します。

これが2つ目の重要なトピックスです。
つまり、曹洞宗としての大船観音の歴史は昭和56年から始まっています。

 

 

さて、「地の声」氏の主張される歴史改竄と本質隠蔽とは何をさしているのでしょうか。
大船観音の戦前の建立の経緯は歴史的事実として境内や大船観音胎内の説明板にも大きく書かれておりますし、どの参詣者の目にも触れるものであります。
鎌倉市戦没者を鎌倉観音胎内に祀るということも大きな石碑として境内にありますので特に隠蔽するものではありません。

また、これだけは明確化しておきますが、前述のとおり少なくとも大船観音が完成した昭和35年から現在まで大船観音には靖国神社の「英霊」は祀られておりません(それ以前も祀られていないはずです)。

表記方法はともかく「支那軍戦死者の霊をも平等に供養する」という高階瓏仙禅師の発願も、昭和14年の時代背景を考えれば特筆すべき考えです。
歴史的背景を踏まえた上で、昭和29年に「生まれ変わった」大船観音には、軍人も民間人も日本人もアジアの人たちも、そんな分け隔て無く慰霊し、平和を願う大船観音であること、
平時でも2?3割ものアジアからの篤い参詣があるということの意味を考えていただきたいものです。

 

そもそも、古来から神道の霊魂観に基づき、人が亡くなった後も霊魂は不滅であり、祀られて鎮まった御霊は祖霊となるという信仰がありました。
故人の生前の功績を称え、威徳を偲び、祖霊祭によりご先祖様を祀るという祖霊信仰では「英霊」という概念は存在しなかったはずです。
けれども、戦前の天皇を中心とする政治体制下では怨霊に対する御霊信仰が新造されてしまいます。
英霊とは顕彰される者であり、戦前戦中及び戦後まもなくは全国の寺院においても「天皇のために死んだ」という事実が顕彰されてきたことは確かでしょう。
しかしながら、戦後の天皇制度は改定され現人神を否定されることとなります。
この時点で英霊は死は鎮魂されるべきものとして他の戦没者と共に供養されるものとなったのではないかと考えます。

 

以上のことを踏まえ、大船観音ゆめ観音アジアフェスティバルでの平和宣言をご紹介します。
2000年に開催された第2回ゆめ観音の時に作らせていただき、毎年受継がれている宣言文です。
アジアの方々と共に、この宣言文を共有しています。

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平和を願う心・・・・・・
それは、全世界どこの国であっても、どのような民族であっても同じであるはずです。
けれども、人間は、その長い歴史の中で、必ずどこかで、戦争と平和を繰り返してきました。

19世紀から20世紀に入ってから私達は機械文明を手に入れ、生活が飛躍的に豊かになりました。
一方で人々は、戦いの中で大量に相手を殺す兵器も生み出しました。
新世紀を迎えても、私たちは、科学、技術、コミュニケーションの分野で飛躍的な発展を遂げることができましたが、残念なことに、暴力と戦争という悪習を終焉させることはできませんでした。

大船の丘から街を見下ろす、この白衣観音像は1929年、世界の恒久平和を祈願して建立されたものです。しかし、悲しいことに、その願いも空しく、日本は第二次世界大戦に突入してしまいます。戦争により、観音像も痛々しい姿になってしまいました。

アジア各国へ与えた数々の過ちを繰り返してはいけない。敗戦を経て今度こそ、観音菩薩の慈悲によって平和を祈願し、世界から戦争を無くすことを誓い、大船観音は現在の姿に再建されました。

このように、大船の白衣観音像は、日本のみならず全世界の平和を、また人々の平安を祈りながら、この地に鎮座なされてから40年経ちます。建立に携わった人々の熱い想いは、その後も多くの人々に受け継がれ、観音の境内には、「原爆の火」や「戦歿者慰霊碑」等、平和への祈りが込められたモニュメントが多く建立されました。

平和は、政治的、経済的、軍事上の契約だけによって保障されるものではありません。
最終的には、人びとの一致した、誠実な、ゆるぎない取り決めによって築かれるものです。年齢、性別、社会的地位、宗教的帰属、または文化的背景の違いを超えて、私たち一人ひとりが、平和な世界を創ることを求められています。

平和は、私たちの行動、態度、日常の行為を通してのみ達成できます。平和の文化はすべての人が分かち合う、普遍的な文化であり、私たちに共通する人間性に不可欠なものであることを認識し、私たちはそれを行動に移していくことを誓います。
祭典が開催される、この大船の地から、アジア諸国に向けて、そして全世界に向けて、平和のメッセージを発信いたします。ここに、ゆめ観音、アジアフェスティバルの開会を宣言いたします。 

ゆめ観音実行委員会


ジャーナリスト藤田庄一氏は今年2009年のゆめ観音に参加され、次のような記事を書かれています。

「アジア各国へ与えた数々の過ちを繰り返してはいけない。敗戦を経て今度こそ、観音菩薩の慈悲によって平和を祈願し、世界から戦争を無くすことを誓い、大船観音は現在の姿に再建されたのです」
大船観音の淵源は1929(昭和4)年。「護国観音」として「世相浄化の一助」として造立が始まった。
しかし、日本は戦争に突入。
観音は造立途中のまま無残な姿を晒し続けた。
現在の姿が落慶したのは1960(昭和35)年。
平和と戦没兵士慰霊の観音としてであった。
1970(昭和45)年には原爆慰霊碑が序幕された。
ゆめ観音アジアフェスティバルの底流の精神は、歴史の反省と平和への希求だった。
「仏教タイムス」2009年10月8日号より

 

むしろ、昭和29年に再建され、昭和54年に曹洞宗包括寺院となった大船観音寺を、曹洞宗のみならず、寺院の持つ歴史的事実を客観的に捉え、曹洞宗の掲げる「平和」のスローガンを推進する事例として進めていきたいと考えています。
ゆめ観音アジアフェスティバルは、大船観音寺だからこそ、大船観音寺でなければ開催できない催しなのです。


追記
この記事を「地の声」氏は早速読んで記事にしてくださったようです。
読んでくださったことに感謝いたします。
論理的な論議ができる余地があるとさらに良かったのですが・・・

とはいえ、このような視点からのものの見方ができるのかということを教えていただいたこと、改めて大船観音の成立経緯を改めて検証するきっかけとなり、高階禅師の民族を超え平等に供養する発願に触れることができたことに感謝いたします。


■関連リンク
大船観音寺公式サイト

■関連ブログ記事
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投稿者: kameno 日時: 2009年10月30日 10:24

コメント: 歴史の改竄を許すな への反駁

kameno様が縷々説明しても、論理的な論議の出来る余地が無いとは、残念ですね。
思索が、ある一定のパターンから抜け出せない方に時々出会いますが、「地の声」氏も、そのような方の一人なのでしょうか、、、。
かような方には、何か「方便」の様な説き方が必要なのかも知れませんが、かような方に限って、「方便」と知るやプライドが傷付く様で感情的になるパターンが多く、困りモノです。
ともあれ、勉強して頂くしかありません、、、。

投稿者 マレーネの父親 | 2009年10月30日 22:26

マレーネの父親様
コメント有難うございます。
言論の自由は許されますのでどのようなことを主張されてもかまわないと思うのですが、「戦争犠牲者」「戦没者」と「英霊」は別の概念なのだということと、現在の大船観音寺には「英霊」は祀られていないということくらいは知って欲しいものです。
というよりも、これを基本的な前提として論議していただきたいと思っています。

投稿者 kameno | 2009年10月30日 22:46

私もかの掲示板を拝見しました。
地の声氏は自らが持つ反省の弁や術以外は、全て批判の対象であり非仏教思想にしか映らないのでしょう。
ある意味、ある時期の闘争思想に犯された典型的な被害者の方なのかもしれませんね。
まず相手(この場合Kameno氏)の立場や主張をも理解しようとせず、一方的に自らのモノサシのみで斬る姿勢は目に余ります。
また余談ですが、知人の話によると宗門の有名な掲示板でも荒らしに似た行為があり、良識ある宗侶の方に論破されてから出沒しなくなったみたいです。

投稿者 せんじん | 2009年10月30日 23:04

kameno様!仰るとおりです。
「英霊」と「戦没者」「戦死者」「戦争犠牲者」は別の概念です。「概念操作」や「概念規定」が正確に扱えない様であれば、論理的な論議にはなりません。
「地の声」氏には勉強して頂くしかありません。

投稿者 マレーネの父親 | 2009年10月30日 23:11

「地の声」氏のブログを覘いてみますと「戦争犠牲者」と「英霊」の区別をつけてはいるようです。
「地の声」氏は、大船観音寺HPの沿革の文中に在る文言に拘泥している事になります。
大らかな勉強をして頂くか、ゆめ観音の、その場に来ていただいて勉強して頂くか、そんな風に勉強して頂くかしかないのでは、、、。

それにしても、「地の声」氏のブログを拝見しますと、従軍僧の記録など、よくもまあ、集めたモノだと思われる位に集めて居られます。これは、これで勉強になりそうです。多少の整理が必要ですが、、、。

投稿者 マレーネの父親 | 2009年10月31日 00:33

> kameno先生

例の掲示板、酷いとは聞いていましたが、ここまでとは思いませんでした。残念極まりないですね。

投稿者 tenjin95 | 2009年10月31日 07:03

せんじんさん
tenjin95さん
言論の自由は尊重すべきですが、個人の名前を挙げて硬直した観点から批判するのは如何かと思い記事としてまとめてみました。
様々な経緯はある程度把握しております。残念です。

マレーネの父親さん
>「地の声」氏は、大船観音寺HPの沿革の文中に在る文言に拘泥している事になります。

実際に大船観音にお越しくださればお判りいただけることでしょう。

投稿者 kameno | 2009年10月31日 08:59

拝啓 突然のコメントを御容赦下さい。『曹洞宗にもの申す』と『曹洞宗「人権・平和・環境』に「骨山住職」というハンドル名で何度かコメントさせてもらっている者です。

ゆめ観音フェスの報道記事(中外)に対して、「地の声」師のブログ『曹洞宗「人権・平和・環境』の記事で「歴史の改竄を許すな!」という記事が載っていたのは読んでおりました。
こちらのブログでSZI事務局長様がその記事に対する反論を展開されている記事を最近知りました。正直、批判、反論、批判、それぞれの論点が噛み合っていないと私は感じました。そう感じたのは私だけでしょうか?

こちらのブログには管理人様に同調するコメントが寄せられ、「地の声」師のブログには常連の方が「地の声」師に同調するようなコメントを寄せています。
ゆめ観音フェスという活動が続けられていることは数年前から知っておりましたが、その趣旨については今回の論戦を読む過程で初めて読ませていただきました。「人権・平和・環境」というスローガンだけが空しく聞こえる現在の曹洞宗の中で地道にこのような活動を続けてこられた実行委員会の皆様に、心より敬意を表します。ゆめ観音フェス開催に大きな問題があるとは、私には思えません。しかし、宣言文を読んでみますと、「地の声」師が「改竄を許すな」と断じたのも全く理由が無い訳でもないように思います。但し、管理人様を始めとする実行委員会スタッフが負うべき責任とも思えません。
 
問題点があるとすれば、
1、 大船観音建立に至る歴史をどう検証し認識するか?
2、 「英霊」という言葉をどのように認識し、どのような意味で用いるか?

この2点に整理すべきでしょう。

「護国大観音建立」は発起人の顔ぶれから推測すると、
「(1)大船観音は日本を中心とした平和の礎を築くために建立された
(2)大船観音は反共的色彩の濃いものである
(4) 大船観音は侵略戦争を美化するものであり、世界平和を祈るものではない」
と断じた「地の声」師の批判は決して見当はずれなものではないと思います。

頭山満など「大アジア主義」「国粋主義」「皇道主義」という形容に当てはまる方々が発起人として始められた「護国大観音建立」は、仏祖の教えに適うものであったでしょうか?今日では、むしろ仏祖の教えを歪めるものではないかと考える方も少なくないと思います。

そして、それは大船観音だけの問題でなく、当然当時の曹洞宗教団、日本の仏教界全体に関わる問題であると思います。宗門寺院が戦勝祈願を行ったり、寺の境内や地域の公園に「忠魂碑」「護国塔」を建立することを推進したり協力したりという事例は決して少なくないと思います。「あういう時代だから、仕方がなかった。」という弁明がなされる場合もありますが、それでは再び戦争協力戦争賛美を繰り返すだけでしょう。仏教者の取る道として正しかったかどうかという検証がなされるべきであると私は考えております。
管理人様始め実行委員会の皆様が「あういう時代だから、仕方がなかった。」 という考えの方である、となどとは思っておりません。むしろ、平和と友好を築くため未来に向けての実践活動を行っておられると思っております。 歴史認識に関して問われるのは、実行委員会というよりも、宗教法人大船観音寺であり、実質管理者である大本山総持寺であると思います。

「地の声」師は自身のブログの中で、下記のような見解を述べています。
『大詔奉戴の精神と常済大師の禅風』(大本山総持寺・昭和17年10月13日発行)

「宮城を護る」ために鶴見に移転された総持寺は本質的に皇室と深い繋がりがある。伊藤道海禅師の晋山式(昭和12年4月)では後醍醐天皇600回大遠忌も併修され、皇后から香炉が下賜されている。。同書は大東亜戦争時(昭和16年)総持寺禅師だった福山界珠が宣戦の大詔に関して述べたものを高橋竹迷がまとめた。これほどあからさまに戦争を賛美したものもめずらしい。総持寺が仏教を捨て皇国史観と一体となって侵略戦争を遂行した事実は重い。戦後どのように反省がなされたのか(あるいは、なされなかったのか)は、現在の総持寺のあり方にも重なる。二年後「御移転100年」を迎える総持寺。まさに総持寺の近現代史を考え、その歴史的意味を総括すべき時である。反省すべきは反省し、未来に向けて一歩を踏み出す意義ある「御移転100年」にしなければならない。
(以下 略)                          No.1093 2009/10/28(Wed) 10:45:43


日本仏教の歴史の中で、皇室や摂関家大名などの権威を拠り所として、寺の権威としてきた事例は少なくないと思います。上記の総持寺のケースは正しくこれに当たると思います。「戦争賛美、戦争協力してきた歴史に対して、検証がなされていない、反省がなされていない」旨の批判は傾聴に値すると思います。
 
 ゆめ観音フェスで読まれる宣言文を拝読し、大船観音HPの沿革を読むと、「地の声」師ならずとも疑問を感じる点があります。



大船の丘から街を見下ろす、この白衣観音像は1929年、世界の恒久平和を祈願して建立されたものです。しかし、悲しいことに、その願いも空しく、日本は第二次世界大戦に突入してしまいます。戦争により、観音像も痛々しい姿になってしまいました。

頭山満等の発起人たちも平和を願っていたかもしれません。でも、願っていた「平和」とはどういうものだったのでしょうか?「地の声」師のように、この文章をもって「歴史の改竄」と糾弾するつもりはありません。しかし、大船観音建立の発起人たちは、世界恒久平和を願っていたのでしょうか?「地の声」師が言うように、アジア諸国の犠牲の上での「日本だけの平和」を願っていたのでしょうか?沿革と宣言文だけからは断定できませんが、「地の声」師のような解釈の成り立つ余地があることは否めません。


アジア各国へ与えた数々の過ちを繰り返してはいけない。敗戦を経て今度こそ、観音菩薩の慈悲によって平和を祈願し、世界から戦争を無くすことを誓い、大船観音は現在の姿に再建されました。

昭和29年から「再建事業」を始めるにあたって、「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」という「護国大観音建立会」の趣旨は検証が行われ、見直しが行われたのでしょうか?

ホームページの沿革の中で、
「昭和29年11月2日、財団法人「大船観音協会」が安藤正純氏、高階瓏仙禅師、五島慶太氏らが発起人となって発足しました。このことによって、「護国大観音建立会」とともに世相浄化という目的は消滅したこととなります。」
この部分の記述は、よく理解できない。大船観音協会が設立されたから、護国観音大協会の設立趣旨が消滅したと言えるのでしょうか?すごく御都合主義的な説明にしか読めません。
 「護国大観音建立会」という名の下に建立が始められた観音様は「他国の主権を侵害し内政に干渉し、日本の権益拡大を図っていくという意味での『護国』と『平和』」を願う観音様であったように思われます。戦後に果たしてこの点についての総括と反省が行われたのでしょうか?もし、行われていなければ、大船観音寺と大本山総持寺は総括と反省を行うべきだと思います。

長い文章になって申し訳ございません。「英霊」について、項を改めて申し述べさせていただきたいと思います。

投稿者 骨山住職 | 2009年11月 8日 15:19

骨山住職様
ご丁寧なコメント有難うございます・
地の声氏の指摘されるように、大船観音の前身である護国大観音は、設立趣意書のメンバーから「大アジア主義」「国粋主義」「皇道主義」の意味合いも含まれているということは、客観的に判断してその通りだと思います。
(護国大観音建立は曹洞宗としての事業ではないです、一応念のため書き添えます)

しかし、財政面、戦局の悪化から完成をみることなく、ましてや礼拝施設としての観音像は出来ませんでした。未完のまま放置されてしまいます。
この時に大船観音が完成していたら、現在の大船観音とはかなり違った歴史を歩んでいったことでしょう。

昭和14年、總持寺高階禅師は、日本人も中国人も平等に供養していくということを主眼として大船観音完成促進総願文を出されました。
この精神は、日本各地に所謂日本軍を讃える「英霊」が奉祀されていく世の風潮の中で貴重な発願であると考えています。

昭和35年、大船観音完成の際には「大アジア主義」「国粋主義」「皇道主義」という色彩は、払拭されたといって良いのではないかと思います。
生まれ変わったというよりも、理念が発願当初と変わった形で完成したと言ったほうが正確でしょう。
完成当時の年中行事がそれを物語っています。
(この時代もまだ曹洞宗には属しておりません)

とはいえ、ゆめ観音宣言文の「大船の丘から街を見下ろす、この白衣観音像は1929年、世界の恒久平和を祈願して建立されたものです」は、確かに歴史的経緯を正確に伝えていない面もあります。
来年以降の宣言文で、そのあたりを盛り込んで行きたいと思います。

いずれにせよ、ゆめ観音は「大船観音寺」だからこそ開催に意義があると考えています。


なお、ここからは蛇足ですが、私個人の意見として「總持寺御移転100年」を機に、能登に還るのがよいと考えています。鶴見は、檀家さんのため、そして宗門全体のための機能を持たせることもできます。
まあ、こちらは一僧侶の意見ということで。

投稿者 kameno | 2009年11月 9日 08:02

管理人様

不躾なるコメントにもかかわらず、丁重なるご回答を賜りましてありがとうございます。
「宣言文を見直す」旨の回答をいただき、安堵しております。

また、管理人様が今回の批判の過程で取り上げられましたが、高階禅師の「完成促進総願文」にある怨親平等はかなりの評価に値すると思いました。前後の文章を読むと、時代背景が多分に反映されているだけに難点も感じます。ですから全面的に賞賛と言えませんが、供養という意味においては彼我の区別せず平等に扱うという考えは素晴らしいと思います。


但し、御回答の中で、気になる部分もありました。


昭和35年、大船観音完成の際には「大アジア主義」「国粋主義」「皇道主義」という色彩は、払拭されたといって良いのではないかと思います。生まれ変わったというよりも、理念が発願当初と変わった形で完成したと言ったほうが正確でしょう。完成当時の年中行事がそれを物語っています。

この説明には頷ける部分もあります。しかし、納得しきれない部分もあります。戦後に修仏がなされた際、「昭和4年当時の趣旨を引きずってはいない」旨のことがはっきりと言明されているのでしょうか?記録等に明示されたおらず証言できる立場の方が最早存命されていないなら、やはり大船観音寺として総括検証すべきではないかと思います。

正直私は大船観音の沿革について詳しく知りませんでした。大本山総持寺から役寮等が派遣されていることぐらいは知っておりましたが、建立のいきさつや宗教法人となる経過については今回初めて知りました。そういう意味でも、時として論理の飛躍や断定もありいささか高圧的とも取れる言い方が気にはなりますが、「地の声」師の見識と問題意識には敬意を持っております。かと言って、彼を信奉したり随順したりしている訳ではありませんし、敵対している訳でもありません。飽くまでも是々非々で臨んでいるつもりです。

 前置きが長くなりましたが、「英霊」のことについて申し述べさせていただきます。

まず気になるのは、牧野良三氏の『大船観音再建募金趣意書』の文言です。「国民道義を清浄無垢な真の姿に復元し」という言葉は左翼思想に対する警戒心が感じられますが、この点についてはここでは触れません。

 やはり問題になるのは「英霊」という点についてです。

さきの大戦に殉ぜられた二百有余万の英霊をこの尊像の胎内にお迎えして

ここで言う「英霊」とはどういうものか、また何処からどのようにしてお迎えするのか、よくわかりません。

ですが、地の声師はこの「英霊」という言葉にかなり過激に反応したようです。私の推測ですが、下記のような思考経路ではないかと思われます。

   英霊
   ↓
   御国の為に戦った名誉ある戦死者
  ↓
靖国神社に祀る

靖国神社とは、戦死者を「英霊」と顕彰し、
戦死の悲哀を「幸福」に転化してゆく装置。

国家は「戦死が名誉であり喜びである」と国民に刷りこむ。

戦争のため国家のため、命を投げ出す兵士を確保する。

牧野良三氏の趣意書にある「英霊」がこういう意味での英霊であるのかどうか断言できませんが、地の声師のような受け止め方をされてもやむを得ない記述だと思います。それ故、地の声師は下記のようにコメントしている。

靖国神社から「英霊」を分けてもらうには相当の難しい手続きが必要で、「趣意書」に印刷され配布されたということは、大船観音に「英霊」を祀ることが、靖国神社との間で決定されていたということは明らかである。

「英霊=靖国神社に祀られる戦死者」と考える立場から、当然出てくる意見でしょう。
一方、「戦没者の位牌を作って観音像胎内に祀るだけでも、英霊をお迎えするといいうことになる。」という見方も可能かもしれません。それ故、管理人様は下記のような説明を書かれたのだと思います。


大船観音は昭和35年に落慶しますが、その際に胎内にお迎えしたのは、靖国神社に祀られている「英霊」ではありません。しいて言えば、境内に「鎌倉市戦没者の英霊を鎌倉観音胎内に祀る」(昭和35年 鎌倉市遺族会建立)とありますから、遺族会が戦没者を慰霊するために位牌と戦没者名簿を納めたということが大船観音再建趣意書の「英霊」にあたるといえるでしょう。

地の声師はこの説明では到底納得できなかったようです。私としても理解に苦しむ部分があります。

1、 牧野氏の趣意書にある「英霊をお迎えする」とは、どういう行為を指すのか?
靖国の英霊であるなら、実際にお迎えしようとしたのでしょうか?結果的にお迎えしていないなら、何故「お迎えする」ことができなかったのでしょうか?この辺の経緯を明らかにしていく必要があると思います。
2、「遺族会が戦没者を慰霊するために位牌と戦没者名簿を納めた」ことを以て、趣意書にある「英霊をお迎え」したことになるとする論拠がわかりません。
   

私は「英霊」という言葉を以て戦死者を讃え、戦争を美化しようとすることにはかねてより抵抗を感じておりました。ですから、昭和62年までの『曹洞宗行持軌範』では祠堂諷経の回向の中に「歴代天皇各々尊儀、国家功労者諸精霊、万国戦死病没者諸英霊」とあることに疑問を抱いて居りました。「日本国諸英霊」ではなく、「万国」となっていた点は良かったと思いますが。
昭和63年の改訂で上記部分が削除され、「万国殉難者諸精霊」と書き改められたことを一応歓迎して居ります。一応というのは、当時配布された櫻井秀雄先生の説明文では「いわゆる戦争犠牲者と言われる者が、私達のように銃弾の下を潜ってきた人間ばかりではなくて、その他の人達もいろいろな形で苦悩してきているということを考えるならば、戦死者だけを特別扱いすることは避けて置くべきではないか」という理由を説明しています。
(曹洞宗ブックレット 宗教と差別6「宗教儀礼と差別―『行持軌範』改訂について―)
「天皇制」とのかかわりを中心に「行持軌範」を改訂したという割には、この英霊に関する説明はいささか拍子抜けでした。もう少し教団として戦争協力等の問題まで踏み込んでほしかったと思います。
 いずれにせよ、この改訂以降、曹洞宗としては法要等の中で「英霊」という言葉を用いないことになりました。ましてや、その後、広島寺院家系図問題での糾弾や検討の中で、両大本山は勅旨禅師号をいただかないことになりました。そういう経緯の中で、大船観音寺としても大本山総持寺も「大船観音の沿革」を見直すべきであったと思います。過去の事実を削除したり隠蔽したりするのではなく、事実を事実として明らかにし、その上で歴史的な総括と検証を行うべきだと思います。

 私は、大船観音の沿革や境内の掲示から「英霊」の言葉を削除せよ、というつもりは毛頭ございません。戦死者の遺族は自分の身内が英霊として祀られていることに誇りを持っていると思います。そういう現実や遺族の感情を無視して、「英霊」を全否定したいとは思っておりません。歴史的事実として「英霊」という言葉は存在してきました。ですから、それを削除すべきとは思いません。しかし、「英霊=靖国に祀る戦死者=侵略戦争の美化」と受け止める人々も少なくないことを十分に考慮しなければならないと思います。それだけに、「英霊」という言葉の使用には注意が必要ですし、誤解曲解を産まないような説明がなされるべきでしょう。
 戦死者および戦争犠牲者を慰霊することは大事なことだと思います。戦争を正当化したり美化したりすること無く、遺族の悲しみを平和への礎に昇華していく供養であるべきだと思っております。

 管理人様始め実行委員会の皆様にとって、地の声師が言う「歴史の改竄を許すな」という言葉は汚名かもしれません。しかし、その汚名を返上するためには、大船観音寺と大本山総持寺が大船観音の沿革を総括し、過去の建立趣旨との決別を明言していただくことだと思います。

今回も、くどくどと長い文章となりましたことをお詫び申し上げます。

投稿者 骨山住職 | 2009年11月10日 13:19

骨山住職様
コメント有難うございます。

>私は、大船観音の沿革や境内の掲示から「英霊」の言葉を削除せよ、というつもりは毛頭ございません。戦死者の遺族は自分の身内が英霊として祀られていることに誇りを持っていると思います。そういう現実や遺族の感情を無視して、「英霊」を全否定したいとは思っておりません。歴史的事実として「英霊」という言葉は存在してきました。ですから、それを削除すべきとは思いません。


大船観音寺のホームページ並びに境内の由緒書には歴史的史実を包み隠さず掲載しています。
当ブログ記事においても同じです。
言葉を削除すれば良いという問題ではないからです。
逆に何の説明もなく削除したとしたら、それこそ歴史を隠蔽したことになります。
 

>戦死者および戦争犠牲者を慰霊することは大事なことだと思います。戦争を正当化したり美化したりすること無く、遺族の悲しみを平和への礎に昇華していく供養であるべきだと思っております。


この点につきまして全く同感です。
大船観音寺で現在営まれている戦没者慰霊法要はそのようなものであるということは言うまでもありません。
念のために申し添えますが、大船観音寺で、戦没者慰霊法要では回向中に「英霊」という言葉を用いておりません。少なくとも曹洞宗に属してからはそのような回向文となっています。


>管理人様始め実行委員会の皆様にとって、地の声師が言う「歴史の改竄を許すな」という言葉は汚名かもしれません。しかし、その汚名を返上するためには、大船観音寺と大本山総持寺が大船観音の沿革を総括し、過去の建立趣旨との決別を明言していただくことだと思います。


地の声氏のブログ記事は一つの貴重な意見として受け止めさせていただいております。
ただ、残念なことは「言論」の体を為していないということです。
言論の自由とは、自由に何を書いても良いということではないということです。
匿名で、特定の相手を名指しで(この場合はSZI会長)を一方的に誹謗する権利は誰も持ちえていません。
よって汚名とは捉えておりませんし、汚名「挽回」ということであればその必要はないと考えます。


ゆめ観音実行委員会として行うこととすれば、先のコメントで申しましたとおり「宣言文」で誤解を生じないように丁寧な記述を行なうことでしょう。実行委員会として行なうべきことにつきましては可能な限り行なわせていただきます。


「沿革を総括し、過去の建立趣旨との決別をする」ということについては、私はこれまで述べてきたように過去の建立趣旨との決別は既に為されているという考えです。

もし過去の建立趣旨との決別が不十分であると仰るのならば、(そう考えるのはもちろん自由ですが)沿革の総括を行なうことに関して、実行委員会の域を逸脱する部分も多分にございますので、併せて大本山總持寺及び大船観音寺、もしくは曹洞宗にも求めて下さるようにお願いいたします。

投稿者 kameno | 2009年11月10日 18:27

御返答ありがとうございます。

 私の疑問点がすべて解消したわけではありませんが、管理人様のお考えは理解できました。

 「英霊を供養する」塔や施設を有する寺は、宗門の中で他にもかなりあると思います。大船観音は、建立の趣旨に護国を謳っているだけに、とりわけ歴史認識問題の指摘される沿革を背負っていると思います。現在の大船観音の沿革のままでは、検証と説明が不十分ではないかと思っております。今後、ゆめ観音フェスが継続される中で、大船観音の沿革が十分な総括と検証がなされますことを願っております。

  最後に、大船観音寺が世界平和と友好を発信する場となり、ゆめ観音フェスが今後も平和と友好を発信する行事として継続発展されることをお祈り申し上げます。

投稿者 骨山住職 | 2009年11月10日 20:09

骨山住職様
ありがとうございます。
仰るとおり、未完であったとはいえ、「護国」観音としての観音像建立を少なからず意図していた時期はあったわけであります。
これまで以上にそのことを踏まえた上での「ゆめ観音」の意義を改めて検証し発信していきたいと思います。


宗門全体として歴史問題に関する見解が出されるとよいのですが、まずは一人ひとりの宗侶としての考えを明確に出していくことも必要だと思っています。

投稿者 kameno | 2009年11月10日 20:33

kameno様
「実際に大船観音にお越しくださればお判りいただけることでしょう」とは、どのような意味でしょう?
私に対して言っているのですか?
念の為にお尋ね致します。

投稿者 マレーネの父親 | 2009年11月11日 13:20

マレーネの父親さん

「地の声氏が」ということです。

怨みを持って怨みに報ぜば、怨みやまず。徳を持って怨みに報ぜば、怨みすなわち尽く・・・

投稿者 kameno | 2009年11月11日 15:12

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