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貞昌院に隣接する永谷天満宮には菅原道真公が、自分の姿を鏡に映して自分で刻んだ木像が御神体として祀られています。
永谷天神と菅秀才 (上永谷)永谷天満宮は、永谷の天神さまとして親しまれ、菅原道真が、自分の姿を鏡に映して自分で刻んだ、三つしかない木像のうちの一体をもつ神社として、知られています。
菅原道真は、平安時代の人ですが、醍醐天皇の信頼が厚く、時の支配者である藤原氏と対立し、延喜元年(901)九州の大宰府に流され、延喜三年その地で亡くなりました。
文学や文章を書くことに、すぐれていましたので、学問の神様といわれています。菅原道真には、十三人の子どもがおりましたが、その第五子敦茂は、父の才能を受けつぎ菅秀才と呼ばれるほどで、父の道真も大いに期待し、三体の道真像のうちの一体を、そっと渡していたのでしょう。父の道真と共に、子どもたちも都から各地に追放されました。
伝説によると、敦茂は永谷の郷に移されたということです。
菅秀才敦茂が、相模に住んだという記録はありませんが、いまの上永谷の天神山のふもと、つまり、現在の貞昌院あたりに住んでいたと伝えられています。
敦茂は、天神山の頂上に立ち、はるか遠くの九州太宰府の父、道真公をしたいながら、朝夕のご挨拶をされたということです。
山の上には、敦茂が愛用した筆や、髪の毛を埋めたとも伝えられる、菅秀塚の碑があります。
むかし、その塚の上にあった杉の老木を切ったところ、村の人びとがケガをしたり、病気になったりしたと伝えられています。
菅原敦茂がいつ生まれ、いつ死んだのか、くわしいことはわかっていません。文章博士や、そのほか重要な役目につぎつぎとつくなど、親子二代の学者として有名でした。
道真像は敦茂から多くの人を経て、上杉乗国に伝えられ、夢のおつげによって、明応二年(1493)ここに社を造り、ご神体としておまつりしました。これが現在の永谷天満宮です。
外の二体の道真像は、道真のお墓のある福岡県の安楽寺と、生まれたところの大阪府の道明寺にあります。
(港南歴史協議会のサイトより)
この御神体は、平時は貞昌院に安置されておりました。
というのも、天正10年(1582年)に宅間藤原規富が永谷天満宮を再建するにあたり、川上(戸塚区川上町)徳翁寺第四代住職明堂文龍大和尚を請し、上永谷町字籠森(現在の市営地下鉄上永谷駅付近)に建立されたのが貞昌院の始まりであり、天満宮別当として代々歴代住職が神職を兼務してきたという経緯があるからです。
御神体は、天正十年以来、貞正昌院歴代住職により大切に護られてきました。
御神体を収めている厨子も貞昌院第十世住職により造られています。
これまで、平時は貞昌院に安置されているわけですので、12年に1度の丑年大祭の際に、貞昌院より御神体が神輿により運ばれ、永谷天満宮に大祭の間安置され、また大祭が終わる際には貞昌院に還されてきました。
今年になり、天満宮に新たに御神体安置のお堂が完成したため、今後は御神体が平時にも永谷天満宮に安置されることとなりました。
(したがって、上記のような御神輿に乗せられて貞昌院から天満宮へ運ばれる儀式は今年からは見られなくなります)
ということで、御神体遷移の儀式が行われ、貞昌院本堂より永谷天満宮御神殿へ運ばれていきました。
菅原道真公自刻の木像は、今後は永谷天満宮に安置されることとなり、丑年大祭の期間だけご開帳になります。
12年に一度のご開帳です。
是非ともこの機会に御神体にお参りくださることをお勧めいたします。
■■9月25日「大天神祭」14:00より■■
永谷天満宮にて