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「ぼくたちにとって一切れであっても朝の粥に入っている肉は大変な楽しみであり、その大小は1日中頭の中をしめる喜びや悲しみでもあった」「誰も気がつかぬうちに夜ひっそり死んでる者がよく出るが、すぐ分かった。どんな場合でも、それまで体中にびっしりとまつわりついていた虱が一斉に逃げ出す白い列が見えて確認された」
『黒パン俘虜記』(胡桃沢耕史)
シベリア抑留といえばロシア国内のみだと思いがちですが、モンゴルの地にも数多くの日本人が抑留されていました。
一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際にはモンゴルや中央アジア、北朝鮮、ヨーロッパ、ロシアなどにも送り込まれていた。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
抑留中の過酷さは話として耳にしたり体験記を読んだりしますが、実際どれほど辛かったのか、正直自分自身どれほど理解できているのかわかりません。
モンゴルツアーにおいて、どうしても訪問したい場所として、ウランバートル郊外(北北東に約15km)にあるダンバダルジャー日本人慰霊碑(日本人墓地跡)がありました。
それがこのたび実現しました。
(⇒地図はこちら)
諸士よ 祖國日本は 見事に復興しました
モンゴルに 安らかに 眠ってください
厳冬の地モンゴルで、ノモンハン事件や戦後抑留され強制労働に従事され亡くなった800人を超える遺骨(うち、姓名が判明したのは614名)がこの地に埋葬されていました。
ダンバダルジャー以外にもモンゴル各地に日本人墓地がありましたが、遺骨の多くは日本に戻され、ここに慰霊碑が建立されたのです。
霊堂内で慰霊法要を営ませていただきました。
モニュメントの天頂部に空けられた円形の穴を通った太陽の光が、一日2回壁面に日の丸を作り出すそうです。
ダンバダルジャー日本人慰霊碑のすぐ南に隣接するダルハダルジャー寺院境内にも日本人霊堂があります。
(⇒地図はこちら)
ここには数十人もの僧侶の修行光景も見受けられました。
かつて日本人収容者の元軍医による診療所の建物(写真右)も境内に残されています。
「砂漠をトラックで運ばれ、この首都に到着したときは,川の両側の平地には、白いきのこのようなフェルトの天幕と、朱塗りの柱のラマ教の寺院と、3階建ての政府の建物が3棟あるきりだった」「大統領閣下は、革命達成25周年を記念して、この川の両岸の天幕の集落を自分がときおり参勤する大祖国のあのすばらしい首都と同じように、中央に分列行進ができる広場を作り、回りに官庁、大学、劇場などのある都市にしたいと考えた」「首都とは名ばかりで、川の両岸にフェルトの移動天幕が並ぶ集落にすぎなかったこの平地が都市らしい外観を見せだしたのは、その年(昭和20年)の11月から翌年の5月にかけて行われた猛烈な労働の結果である」「帝国側の督励と、収容所側の協力で、すべての予定作業は前日で終わった。新しいビルディングが10も建ち、道路や広場は美しく整備され、中央の銅像は今にも馬が動きそうに見事だった」
『黒パン俘虜記』(胡桃沢耕史)
ウランバートル滞在中、日本人抑留者が建設した国立劇場や、スフバトール広場の周囲を何度も通りました。
首都ウランバートルの基盤となる道路や建物の多くは、過酷な労働により建設されたものだと考えると、複雑な心境です。
植林で訪れたロシア国境の町では「鉄道唱歌」が民謡として伝わっているそうです。
また、ウランバートルを見渡すことが出来るザイサントルゴイの丘には、大日本帝国国旗を踏み折っているソ連軍兵士の巨大なモザイク画が掲げてありました。
戦争の影があちこちで見受けられた旅でもありました。
日本の土を再び踏むことなく、この地で亡くなられら方々の思いはどのようなものだったのでしょうか。
■関連リンク
ノモンハンの戦い
戦史 満ソ国境紛争/ノモンハン事件
そうだったんですか、あの広場。う?ん、複雑です。
投稿者 蓮 | 2009年6月23日 22:57
亀野さん、植林の旅、それが巡礼(慰霊)の旅、気持ちが洗われた旅でもありましたね。異国の地に眠る人達にとっても、日本からのお経の響きを聴き、さぞ嬉しかった事でしょう。
実は、今年の春私も沖縄へ旅をした際に「ひめゆりの丘」へ行って参りました。沖縄戦の戦場の跡を巡って、矢張り、この地を訪れて良かったと思いました。昨日のTVを見た際も、自然と頭が垂れました。本当に、今回のモンゴル訪問は色々の点で意味深い旅であったと思います。ご苦労様でした。
投稿者 ちのしんいち | 2009年6月24日 01:38
蓮さん
今にも馬が動きそうに見事な銅像、当時の日本人捕虜たちが眺めていた同じ銅像を時を越えても私たちも眺めてきました。
慰霊堂で慰霊の読経をさせていただけたことが何よりのことでした。
ちの様
帰国後、勤めさせていただいた檀家さんの葬儀は、偶然にもシベリア抑留を体験された方でした。
遺族の方と、今回の旅行の話をさせていただいたところです。
私の親戚にも、教区の方丈様の中にも抑留体験をお持ちの方がいらっしゃいます。
話をうかがうにつれて本当に想像を絶する過酷な体験であったということがひしひしと伝わってきます。
投稿者 kameno | 2009年6月24日 09:33