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食事の前にお唱えする「五観の偈」
修行道場で使われている経本には次のように印刷されております。
食事五観之偈一つには 功の多少を計り。彼の来処を量る。
二つには 己が徳行の全欠を忖つて供に応ず
三つには 心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。
四つには 正に良薬を事とすることは形枯を療ぜんが為めなり。
五つには 成道の為めの故に今此の食を受く『永平寺日課経大全』(編集発行・大本山永平寺)より引用
五観之偈
一つには 功の多少を計り、彼の來處を量る。
二つには 己が?行の、全缼と忖つて供に應ず。
三つには 心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす。
四つには 正に良藥を事とすることは、形枯を療ぜんが爲めなり。
五つには 成道の爲めの故に、今此の食を受く。『諸嶽山總持寺日課諸経要集』(発行・財団法人大本山總持寺僧堂興隆会)より引用
<句点、句読点、漢字、送り仮名は原文ママ>
読み下しの仕方により、意味は大きく異なってきてしまいますが、曹洞宗では、食事の際に、五観之偈の第3句を「三つには、心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす」とお唱えすることになっています。
修行に入ってから、しばらくは、何の疑問も無く読んでいたのですが、その意味を考える余裕ができたころから、第3句目について、この読み方で良いのだろうか?という疑問が生じてきました。
周囲の多くの方にお尋ねしたりしましたがどうもすっきりしません。
五観偈「五観の偈」とも読む。「五観想」ともいう。
食事の際に、感謝の気持ちを示し、自らを反省し戒めるための五つの綱目。『勅修百丈清規』には「五観の想念を作す」とあって、心に想い描くものであったが、現在では口に唱えることが通例である。
偈の内容は、『禅苑清規』の受食之法によれば、「一つには、功の多少を計り彼の来処を量る(食事を作る苦労や、それらの出処を想いはかる)。二つには、己が徳行の全欠を忖つて供に応ず(自分が〔食事を受けるに値する〕善い行いをしてきたかどうかを考えて食事をいただく)。三つには、心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす(迷いの心を防ぎ、過ちを離れる際に、貧瞋痴〔むさぼり・いかり・おろかさの3つの煩悩〕を中心に考える)。四つには、正に良薬を事とすることは形枯を療ぜんが為なり(〔この食事を〕良薬としていただくのは、身体の衰えを防ぐためである)。五つには、成道の為めの故に今此の食を受く(仏道修行の完成のために、今この食事をいただく)」の五つ。
ただし、臨済宗では第3句を「三つには、心の防ぎ、過・貪等を離るることを宗とす(心の散乱を防ぎ、過ちや貧瞋痴を離れることを宗とする)」と訓読し、また、『諸回向清規』によって、第5句を「五つには、道業を成ぜんが為に、応に此の食を受く(修行という行為の完成のために、この食事をいただく)とする。『禅の思想辞典』(東京書籍,田上太秀/石井修道編,2008)
下線はkameno記載
個人的意見をあえて述べさせていただくと、やはり意味から考えるに、臨済宗や黄檗宗のように「三つには、心の防ぎ、過・貪等を離るることを宗とす」と唱えることが意味を捉えやすい感じがします。
もっと言えば、曹洞宗の読み下しの方法が、もしかしたら間違っているのではないかという気もします。
しかし、曹洞宗で「三つには、心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす」と規定しているとすれば、貞昌院の坐禅会で、臨済宗の読み方によるお唱えはできないでしょう。
もうひとつ、『永平寺日課経大全』の「食事五観之偈 」には、句読点が第2句と第5句にはありませんが、その打ち方に何か意味があるのでしょうか。
ちょっとした疑問でした。
> kameno先生
昨日はお疲れ様でした。
この読み方なんですけれども、拙僧もうろ覚えで恐縮ですが、どうやら江戸時代からそう読んでいたようで、今でも無批判に踏襲しているようです。
なお、道元禅師の時代は、これを口に出さずに、各自で「叉手」をして黙誦していたようです。ですので、おそらく書き下さずに、漢文をそのまま唱えていたと思うんですね。黙誦ですから、唱え方に気を遣う必要もないですから。
こういう風に、色々と「改変」されている行法を、どのようにして「復古」していくのかは、我々に課せられた使命であるとも言えますね。特に、曹洞だ、臨済だと妙な宗派意識にとらわれることなく、そもそもは両宗とも同じ行法を使っていた事実を思い出し(『禅苑清規』などはその一例)、そこに帰ることを目指すべきだと思います。
投稿者 tenjin95 | 2008年11月 3日 05:35
tenjin95さん
お疲れ様でした。
もしも厳密に「復古」していくとなれば、「五観の想念を作す」ということになり、実に静かな飯台となるでしょうね。
どこまで、どのように復古していくかは重要な課題でしょうから慎重に検討していただくとして、少なくとも、現在の読み下しが、なぜそのように読み下されるようになったのかという歴史的事実と理由が明確になればと思います。
実際はなかなか難しいのでしょうね。
投稿者 kameno | 2008年11月 3日 13:32
五観の偈の書き下し文について疑問に思い、検索してここに来ました。
さて、三つには、心を防ぎ、と訳してますが、もともとは、「防心」すなわち、心を防(まも)るということだったのではないでしょうか?
心をまもるとすると、以下は 「トン・ジン・チの三毒を離れることを宗として、心を守るとなります。」
もともとは、「唐代の南山 律宗の僧、道宣が著した『四分律行事鈔』中の観文を宋代に黄庭堅が僧俗のため訳したもの」ですので、
心を防ぎ、としたのは禅宗になってからの事かと思います。
いずれにしても、貪等を宗とすると読み下すのは、間違いです。
分かっていても、修行道場への影響を考えると変えられなかったのでしょう。
投稿者 袋田の住職 | 2012年11月20日 09:47
袋田の住職さま
コメント有難うございます。
「心を(の)防ぎ」については「防心」と捕らえる解釈も有りだと考えます。その意味で、「心を(の)防(まも)り」と読んでも良いのかもしれないですね。
また、後半の「貪等を宗とす」の部分の解釈についてはブログ記事に書いたとおりです。
何十年も読まれてきたお唱えの「読み」を変更することは、かなり難しいのかもしれないですね。
投稿者 kameno | 2012年11月21日 05:37