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春彼岸の入りの日を迎えました。
貞昌院では定期的に行っている墓地清掃も終わり、気持ちよくお参りできることと存じます。
さて、古い墓石を見ると、さまざまな模様がついていることに気がつくことでしょう。
この模様は、菌糸からできている地衣類(ちいるい)という菌類と藻類からなる共生生物によるものです。
植物の一種であるコケと似ていますが全く異なるものです。
この地衣類の模様を見るたびに南方熊楠(1867-1941)が想起されます。
(もし天才がいるとすれば、きっと彼のような人のことを言うのでしょう)
18カ国語をマスターし、博物学・生物学・民俗学・宗教学・性愛学・環境学などの様々な分野の学問を究めました。
チベットでは中国中央政府による軍事介入が行われていますが、日本においては明治政府による神道の純化が強制的に行われ、記紀神話や延喜式神名帳に名のあるもの以外の神々を排滅し、数多くの神社が廃社となり、神社林が破壊されていきました。
南方熊楠は、拘留されたり罰金を課せられながらも政府に対し果敢にも闘い続けました。
「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」の「山岳霊場」と「参詣道」から成る『紀伊山地の霊場と参詣道』が日本で唯一、世界でも類を見ない資産として世界遺産に登録されたのも、南方熊楠がいたからこそと言っても過言ではないでしょう。
日本で最初に「エコロジー」という言葉を用いたのも南方熊楠。
「森林伐採は絶妙なバランスの上に立つエコロジーを壊し、農業・漁業にも悪影響を及ぼす。自然の破壊は人間の破壊につながるのが原理」ということを明治の時代に提言してきた、その先見性には驚くばかりです。
「千百年来斧を入れざりし森は、関係はなはだ密接錯雑いたし、近ごろエコロジーと申し、この相互の関係を研究する特殊専門の学問さえ出で来たりおることに御座候」(和歌山県知事・川村竹治宛書簡より)
それを端的に示したものが熊楠マンダラでしょう。
当時ロンドン・パリ間で交わされた土宜法竜(1854-1923)老師との往復書簡にて描かれた物、事、こころに関する図です。
今、我々はそこに、現実を変えていこうとする社会的実践を放棄し、「信」や「行」という精神の世界にたてこもり、ただひたすら現状を肯定する保守の姿勢を見出すことになる。あるいは、そう見られてもしかたのない、社会的な実践体系しか仏教はもたなかった、といってもいいだろう。 そこには近代における仏教僧の苦さがある。 近代以前の社会では、物と心の微妙なバランスの間隙をぬうようにして、精神の側から社会へアプローチし、物そのものの流れを統御しようとする仏教の社会実践の体系が、まだ商品が社会のなかで大きな役割を担うにいたらない段階においてはある実効性をもっていたからだ。『南方熊楠を知る事典』講談社現代新書、1993年
南方熊楠の時代から100年経過した今日、私たちはちっとも進化していないように感じます。
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地衣類、特に梅の古株や墓石などにみられるウメノキゴケ類は、二酸化硫黄濃度が年平均0.020ppm以上の環境では生育することができません。
そのため、環境の変化を読み取る指標生物として利用できます。
手軽に観察できますので、ぜひ墓参の折にでも着目してみてください。
地衣類が見られなくなるほど環境が悪化しないよう、意識を持ち続けることも大切です。
こうしてみると、石の上に見られる模様に対する見方も変わってくるのではないでしょうか。
曹洞宗宗門では、全国寺院を中心に2000箇所に降雨のPh測定装置を配布し、グリーン・ウォッチング(酸性雨観測)として酸性雨の調査を行ってきました。
もし、私がこの企画を行うとしたら、これに付随して墓石などの地衣類の定期観察を加えたと思います。
なぜなら、特別高価な観察機材もいらない。そして何より寺院には墓石や古木などが豊富にあります。
酸性雨のPhと地衣類の分布を、全国的に面的・時系列的にデータを収集し、分析を行うと、これは学術的に貴重なものになるはずです。