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燃えるピアノから流れるジャズ、弾くは世界の山下洋輔さん
世界的なジャズピアニストの山下洋輔さんが8日、石川県志賀町の海岸で、古くなったピアノへの感謝と供養の思いを込め、激しく燃えるグランドピアノを演奏した。
この表現活動は、金沢21世紀美術館(金沢市)の主催。山下さんは、1973年にも同様の演奏をしたことがあり、その表現の意味を確かめたいと再演した。海岸では、僧侶による読経の後、夕暮れが迫るころピアノに点火。消防士のヘルメットに防火服姿の山下さんは炎上し、少しずつ音が出なくなる中、約5分間にわたって弾き続けた。演奏後、山下さんは「一期一会の気持ちで、最後の音が消えうせるまで闘い続けた」と語った。
(2008年3月8日21時59分 読売新聞)
「形あるものが崩れ、壊れる時、言葉にならない何か得体の知れぬものがある。」
(山下洋輔さんのコメント・粟津潔『造型思考ノート』河出書房新社 1975 年より)今回、金沢21 世紀美術館で行なわれた「荒野のグラフィズム:粟津潔展」関連企画「ピアノ再炎上」で、粟津潔の実験映像「ピアノ炎上」に再会した。その中で燃えるピアノを弾いている35 年前の自分と共演するという得難い機会を得た。ただならぬ表現のさ中に入る自分を見て、一体これは何であったのかという強い感情がわいてきた。あの時は、粟津作品のオブジェとしての役割を全うしたわけだが、と同時にあの時にしか起きなかった出来事によって、もしかしたら自分は他の誰もやらなかったある芸術表現を獲得したのではないか、そのような考えも浮かんできた。
一体何であったのか。これはもう改めて確かめるしかない。やってみるしかない。
この気持ちを金沢21 世紀美術館に伝えたところ、粟津さんゆかりの地である志賀町のご理解とご協力をいただいて、志賀町相神の海岸で「粟津潔展」の関連企画として「ピアノ炎上2008」が実現する運びとなった。
再確認の行為は、同時に極限的状況の中での演奏行為の実験である。これまでもバリケードの中や台風に直撃された野外コンサートなど、様々な「普通」でない状況下での演奏経験はあるが、燃え上がるピアノを弾くのは、まさに極限的状況の最たるものだ。リハーサル不可能の一回性の中に身を置いて、自分でも結末の予測がつかない真剣勝負にならざるを得ない。人間の根源性に訴えかけ、直接に情動を揺さぶる「炎」との共演は、何を実現させてくれるだろうか。粟津さんの言う「言葉にならない何か得体の知れぬもの」が、ピアノをはさんで対峙する炎と人の後ろに姿を現すのだろうか。
今回のイベントでは、製造後何十年の廃棄を待つのみという古いピアノに出会うことになる。心からの愛情を持って葬送のレクイエムを弾きたい。同時に、この演奏を、1973年の映像作品「ピアノ炎上」、それを制作した粟津潔という実験精神に溢れる芸術家、さらに60 年代の実験的前衛的芸術運動全てへのオマージュとしたい。
凄まじい炎ですね。
僧侶たちによる供養法要と共にピアノが奏でる最後の音はいったいどんなものだったのでしょうか。
このブログでも サイエンスカフェ の記事でご紹介いたしましたが、ピアノの黒に影響を与えた漆黒の塗りものの産地、石川県での演奏ということも何かの縁を感じます。
私たちは、「モノ」にもいのちが宿っていると考え、大切に扱ってきました。
たとえば仏壇が古くなった場合、新しく造り替える場合、古い仏壇は魂抜きの法要をし、丁寧に供養してから処分いたします。
この魂抜きのことをお精魂抜きや御霊抜き、または撥遣(はっけん)といいます。
撥遣というのはあまり馴染みの無いことばかもしれませんが、お迎えしていた仏様、ご先祖様を修法の終わったのち、その本来の場所へ送り返すことをいいます。
仏壇は仏様のお越しになる世界、須弥山を模したものであり、様々な仏様がいらっしゃる場所、いわば「コンパクトなお寺」ですからそのように丁重な供養を行うことは外国の方でも理解できるでしょう。
しかし、私たちは、包丁供養や針供養、茶筅供養のように、普段日常的に使っている道具でさえも大切に使い、それが使えなくなったとき感謝の心を捧げ供養してきました。
これは、外国ではあまり見られない習慣であり、日本人の誇るべき文化であります。
大本山總持寺におけるSOTOT禅インターナショナル講演において、ブライアン・バークガフニ教授は修行僧たちの前で次のように講演されました。
長崎の禅寺の話ですが、境内に茶筅塚というのがあります。石に茶筅の石像が乗っていて、ただ茶筅塚と彫ってあるだけです。
日本文化を知らない外国人は、これを見て「すごい!なんという偶像崇拝なんだろう。こんな像を祀って平伏して拝むのか」というように感じるかもしれません。
しかし、これは言うまでもなく、供養です。使い終わった道具をポイッと捨てるのではなく、それを大切に取っておいて、年に何回か茶人たちが感謝の心を込めて供養するのです。この心、文化に触れることができて本当に良かったと思います。
日本の心、日本の文化、特に専門僧堂の中で長い歴史の中で育まれてきとことは世界に伝えて、世界の様々な問題解決にきっと貢献するのだということを誇りの気持ちとして持って欲しいと思います。最近はイラク戦争で国益ということになってしまっていますが、これからは国益ではなく茶筅供養のような地球益の心が必要でしょう。
「日本の禅・世界の禅 ?在日34年の体験から?」 講演録より一部引用
講師・長崎総合科学大学教授 ブライアン・バークガフニ先生
2006年6月23日 大本山總持寺にて
ものを大切に扱い、最後まで丁寧に使い、役目を果たした時には心から感謝しながら供養する。
その行為自体が芸術作品となりうるかどうかはわかりませんが、何も特別なことではないのだということは心しておきたいものです。
追記
この茶筅供養の心は、日本だけでなく、海外の寺院でも受け継がれています。
ロサンゼルスの禅宗寺で行われている茶筅供養法要ついて、今年4月に発行予定のSOTOT禅インターナショナル会報37号でご紹介いたします。
会報をご希望の方は SOTO禅インターナショナル事務局までご連絡下さい。