飛びたつために足りない「何か」

ライト兄弟への挑戦を断念 航空愛好家の復元機


人類初の動力飛行に成功したライト兄弟の「ライトフライヤー1号機」の復元機で、兄弟が1903年の初飛行で飛んだ36.6メートルに挑んでいた西日本航空協会(福岡市、会員26人)が24日、挑戦を断念した。02年5月から復元機の製作に取り組んで5年半。大空に夢をはせた04年12月と今回の計2回の飛行は結局、失敗に終わった。
今回は約20回離陸しようとしたが機体は浮かず、前田建会長(67)は「当時とほぼ同じ未完成の機体で、これ以上何度挑戦しても無理。ライト兄弟は偉大だ」と言う。
復元機は機体長6.43メートル、翼長12.29メートルで、ほぼ木と布製。米国から設計図を取り寄せて、エンジンと車輪以外はほぼ忠実に再現。約700万円かけて04年11月に完成した。その後、36.6メートルに挑んでいた。
会員8人は22日から3日間、鹿児島県枕崎市の枕崎空港に集まり、最後の飛行に挑戦。会員で航空会社の現役パイロット松下浩之さん(44)=長崎市在住=が乗り込んだ。約20回の挑戦で一度も機体は浮かなかった。「横風で機体が振られ、助走速度を上げられなかったのが原因」という。
04年12月には熊本県の阿蘇観光牧場で70センチ浮上し30メートル飛んだが、機首から落ちて破損した。今回は国土交通省の許可を得た2回目の飛行だった。
前田会長は「ライト兄弟は科学者であり、職人であり、パイロットでもあり、何でも2人でやった。私たちは分業化で退化してしまった」と話した。
(朝日新聞)



こういう記事を見るとワクワクします。

人類はず?っと大空を自由に飛び回る鳥に憧れ、空へ飛び立つ夢を持っていました。
ライト兄弟の大空へかける情熱はどれほど大きかったのでしょうか。

理論どおりに作っても、それにプラスする「何か」が足りないと成功しないことってありますね。


今でこそ、空を飛ぶことはごく当たり前となっていますし、飛行場からは数分おきに離着陸が行われています。きっと日本では飛行機に乗ったことのある人の方がそうでない人よりも多いことでしょう。
けれども、ライト兄弟の初飛行から約100年、私たちが空を自由に飛べるようになってから僅か数十年程度しか経過していません。
それを考えるととても不思議な気がします。


思い返せば、大学の時代に手作りの飛行機製作に関わったことがあります。

大学の宇宙航空研究会(○ASA)というサークルの、鳥人間プロジェクト第一回目のプロジェクト(といっても所詮素人学生のプロジェクトですが)に参加したものです。
「鳥人間コンテスト」とは、元々は「びっくり日本新記録」から派生したもので、琵琶湖で毎年夏に開催されている番組企画の大会です。

 ⇒大空にとりつかれて 「鳥人間コンテスト」初放送から30年

資金が豊富にあれば、カーボンファイバーとかスチレンペーパーとかスタイロフォームを豊富に使うところでしょうが、なにぶん資金もノウハウもありません。
とにかく壊れない機体作りをモットーに、材木!をふんだんに使い、安全率を一桁多く取って製作した機体は、試験飛行されることなく(試験飛行したら壊れてしまい取り返しがつかなくなる可能性が高いため)真夏の琵琶湖へと運ばれました。

滑空機部門にエントリーした機体は、松原水泳場に造られた高さ10メートルのプラットホームから見事離陸!・・・・したかに見えましたが、揚力が機体重量に敵わず、そのまま機首を下に向けて頭から湖面に。
記録は確か16mだったと思います。
非常識ともいえるほど頑丈に作ったため、湖面に突入しても機体が破損することはありませんでした。
1985年の夏のことでした。

大空をめざす情熱は、その後部長に就任したS井氏を中心にその後輩たちに受け継がれ、回を重ねるたびに飛行記録を伸ばしていき、入賞の常連になっています。
頼もしい限りです。


冒頭のニュースで、ライト兄弟と同じように作った機体なのに空を飛ぶことが出来なかったのは何故だったのでしょうか。
「何」が足りなかったのか。


以前デーモン小暮閣下がNHKの大相撲解説者として登場した際に話していた、「ハングリー精神」「志」といったものなのかも知れないですね。

私たちは当たり前のように空を飛べる自由を得ました。
けれども、それによって知らないうちにいつの間にかそういう「何か」を失ってしまっているとしたら悲しいことです。


今回は残念ながらライトフライヤー1号機復元機の飛行には成功しませんでしたが、是非挑戦し続けて欲しいです。
成功した際には心よりお祝いしたいと思います。

投稿者: kameno 日時: 2007年9月27日 07:40

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