広島原爆の日に

平和宣言


運命の夏、8時15分。朝凪(あさなぎ)を破るB-29の爆音。青空に開く「落下傘」。そして閃光(せんこう)、轟音(ごうおん)――静寂――阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)。

落下傘を見た少女たちの眼(まなこ)は焼かれ顔は爛(ただ)れ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝(つ)き、衣服は原形を止めぬほどでした。爆風により潰(つぶ)れた家の下敷になり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人――辛うじて生き永らえた人々も、死者を羨(うらや)むほどの「地獄」でした。

14万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、白血病、甲状腺癌(こうじょうせんがん)等、様々な疾病に襲われ、今なお苦しんでいます。

それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。

しかし、その中から生れたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。「こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ」と、忘れてしまいたい体験を語り続け、三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来(みらい)永劫(えいごう)忘れてはなりません。

こうした被爆者の努力にもかかわらず、核即応態勢はそのままに膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕(ひん)しています。時代に遅れた少数の指導者たちが、未だに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。

しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。かつての植民地は独立し、民主的な政治が世界に定着しました。さらに人類は、歴史からの教訓を汲んで、非戦闘員への攻撃や非人道的兵器の使用を禁ずる国際ルールを築き、国連を国際紛争解決の手段として育ててきました。そして今や、市民と共に歩み、悲しみや痛みを共有してきた都市が立ち上がり、人類の叡智(えいち)を基に、市民の声で国際政治を動かそうとしています。

世界の1698都市が加盟する平和市長会議は、「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、2020年までの核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。

我がヒロシマは、全米101都市での原爆展開催や世界の大学での「広島・長崎講座」普及など、被爆体験を世界と共有するための努力を続けています。アメリカの市長たちは「都市を攻撃目標にするな」プロジェクトの先頭に立ち、チェコの市長たちはミサイル防衛に反対しています。ゲルニカ市長は国際政治への倫理の再登場を呼び掛け、イーペル市長は平和市長会議の国際事務局を提供し、ベルギーの市長たちが資金を集める等、世界中の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。今年10月には、地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」総会で、私たちは、人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。

唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。また、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、平均年齢が74歳を超えた被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

被爆62周年の今日、私たちは原爆犠牲者、そして核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた伊藤前長崎市長の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、核兵器のない地球を未来の世代に残すため行動することをここに誓います。

2007年(平成19年)8月6日
                      広島市長 秋葉忠利



第二次世界大戦末期、1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分広島、9日午前11時2分長崎に、米軍機により投下された原子爆弾は、一瞬の閃光とともに両市を壊滅させ、数十万の人々を殺傷しました。


神奈川県・鎌倉市にある大船観音寺の境内には、原子爆弾により犠牲となった方々の慰霊碑が建立されています。

この慰霊碑は、被爆25年の年(昭和45年)に、神奈川県の原爆死没者の霊を合祀し、みたまを慰めるために、県下在住の被爆者が「財団法人大船観音協会」の関係者の厚意により、この地に建立することになったものです。
慰霊碑は、広島・長崎の爆心地の石およびビキニで被爆した第五福竜丸の遺品を添え、被爆者が平和の丘へ向かう姿を刻んでいます。
この慰霊碑の200kgもある土台石は、広島の爆心地の西蓮寺から・・・・50kgある被爆石は長崎の浦上天主堂から・・・そして境内に納められたケロイド状の瓦は、広島原爆資料館から寄贈されたものです。
慰霊碑のカロートには、亡くなられた被爆者の氏名が刻まれています。


大船観音にある「原爆の火の塔」には、広島から福岡県星野村へ分灯された原爆の火が灯されています。
この火は、原爆投下数日後に、市内の書店地下室倉庫でくすぶっていた火を発見した方が、カイロに火を移し、九州の自宅に持ち帰られたものです。
その残り火は、平和の灯火として、福岡県星野村役場で現在も絶やすことなく灯され続けています。
神奈川県原爆被災者の会により、被爆45年の年(昭和65年)に星野村役場より分火された「灯火」に平和の願いを込め、建立されたのが、大船観音の「原爆の火の塔」です。

星野村役場に原爆の火が受継がれている経緯についてはこちらをご参照ください。
星野の里に永遠に燃える「平和の火」 その1
星野の里に永遠に燃える「平和の火」 その2


大船観音の慰霊碑に刻まれたことばが現実のものとなりますよう、こころから願います。


核兵器もない

戦争もない

平和な世界を



なお、9月8日 ゆめ観音アジアフェスティバルが大船観音境内にて開催されます。
夕方には、蝋燭の灯火による萬灯供養法要が営まれます。
平和のねがいを込めて建立された、この大船観音で厳修される萬灯供養法要は、この大船観音ならではの特別な意味もこめられています。
是非、みなさまもこのゆめ観音アジアフェスティバルにお越しいただき、萬灯供養法要にもご参列いただきますようお薦めいたします。


■関連記事
原爆投下の日に

Flam of the Atomic bomb in Ofna kannon

投稿者: kameno 日時: 2007年8月 6日 23:30

コメント: 広島原爆の日に

小学生の頃から毎年8月になると平和教育が行われました。
その頃はまだ市内に住んでいて、原爆の恐怖を体験はないけれど、いつも色々な事柄を通してきくたびにふるえあがっていました。
うちの親族は広島にいながらも県北に住んでいた為、その実体験を直接聞くことが出来ませんでした。
ただ、世界史を習うようになってから大東亜戦争のことを知り、祖父が末期ごろにかりだされ、従軍していたことを知りました。「あれは、侵略戦争じゃけえのう・・」
祖父は肺病病みでいつも検査で落とされていたのです。
お国のためにはならなくても、生きて還って来られた事が何よりの光明でした。でなければ今ここに私という人間はいなかったかもしれませんし、おじいちゃんに会うことは出来なかったでしょう。

戦争はいつどこで起こっても悲惨なものです。

白衣観音経をあげながら、やはり今の私にはお祈りする事しかできない・・と思い、観音様におすがりするしかないのだと思っています。
何も出来ないでいる自分がはがゆくても・・

投稿者 ゆが | 2007年8月 7日 09:07

広島出身の方には、また原爆に対する感じ方も違うのでしょうね。
核兵器もない、戦争もない世の中というのは理想論かも知れないですが、唯一の被爆国として核兵器の廃絶を訴えていくということは必要です。
一人一人の平和の願いは小さいものかも知れませんが、それがつながってひろがっていくことによって大きな力となっていくことでしょう。

投稿者 kameno | 2007年8月 8日 08:52

ぼくは、今原爆ドームについて調べています。いい情報をください。

投稿者 tosiki | 2007年9月14日 15:03

tosikiさん
コメントありがとうございます。
質問が漠然としているのでどう回答してよいのかワカリマセンが、とりあえず下記の書籍は如何でしょうか。
朝日新聞広島支局 『原爆ドーム』 朝日文庫、1998年 ISBN 4022612355
山下和也・井手三千男・叶真幹 『ヒロシマをさがそう:原爆を見た建物』 西田書店、2006年 ISBN 488866434X

投稿者 kameno | 2007年9月15日 00:12

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